30 / 57

3章 忍び寄る闇の足音 6

 突然、渦巻いた炎の合間を縫って突風が吹き込んだ。がつ、何かが額にぶつかった衝撃に思わず目を閉じる。 「大丈夫か?」  小指大の砂礫がレイスの額に小さな傷を作っていた。 「べっ、つにこんなのすぐ、治る……」  ヴァルディースに顔を覗き込まれてとっさに顔を伏せた。  どうせ殺したってすぐに再生するような体なのだ。この程度の擦り傷ができようと、どうってことはない。流れ落ちてきた血の雫を拭おうとしたが、それを遮ってヴァルディースがべろりとレイスの額についた傷を舐めあげた。  一瞬怯んだものの、同時にかぁっと体がほてってしまう。  舐められた額がこそばゆいと言うか、とにかく恥ずかしくて炎狼の顔がまともに見れない。額を覆って、うずくまる。正直、すごく嬉しいと思ってしまう自分が憎たらしい。 「砂まみれの体も全部舐めてやろうか?」  そのレイスの姿がきっと面白かったのだろう。冗談のように鼻で笑った炎狼に、ますます血がのぼった。浮かんだのは、人型をとったヴァルディースの腕の中で、あられもなく泣き乱れている自分の姿だ。 「冗談じゃねぇっ!」 「おお、随分元気になったじゃないか」  振り上げた拳を腕のような形の炎で絡め取られ、炎狼がからからと笑う。その反応が悔しくて悔しくて、たまらず歯ぎしりした。ああ、ちくしょう、こいつには絶対勝てないではないか。そう思い知らされる。  グライルとは全然違うのに、ヴァルディースとの些細なやりとりが、どんどんレイスを魅了する。本能だから違うと思っても、この感情が偽物なのか本物なのかもわからなくなっていく。  レイスにしてみても、別にヴァルディースのようなタイプは嫌いではないどころか、たぶんどちらかというと好きな部類だ。だからこそ、困る。いっそ本当に何も知らないまま無邪気に好きになってしまえていたら、どれほど幸せだっただろうと思う。  そう思って、はたと気づいた。自分はこの炎狼を好きになりたいのだろうか。心を開いて、受け入れてしまいたいのか。  いや、まあ確かにわざわざ心を開こうと思わなくともとっくにだだ漏れらしいし、すでに一度身体は開いてしまっているしで、今更何を言ってるんだということではあるのだが。  でもそういうことではなく、だから、と考えをまとめようと思ったものの、思考がうまく働かない。嵐が激しさを増すごとに、体が異様に火照っていくように思える。考えすぎてのぼせてしまったのだろうか。頭から足先まで、まるで炎に包まれるようだ。  頭がぼうっとしてヴァルディースをただずっと見上げていると、炎狼が不意に人型へ変わった。 「やっぱりまずいか。少しだけ、我慢しろ」  獣の時とは打って変わって深刻な表情だった。思わずレイスは身を引きかけたのに、逆に腕をからめとられて抱き寄せられる。 「何、すん、だ……!」  離せと抗おうとしても、力強い腕は振り解けず、ぞっと恐怖が襲う。 「こいつはただの砂嵐じゃない。魔気嵐だ」  魔気嵐という言葉は聞いたことがある。けれど働かない思考と本能的な恐怖がその意味を思い出すことを阻害した。  炎の渦巻く壁が弾け飛ぶ。砂嵐が遮るものなくヴァルディースとレイスを直撃する。 「説明してる暇はない」  ヴァルディースの唇がレイスを奪った。すっと、触れ合った唇から何かを奪われる。全身から力が抜け、あっという間に意識が遠くなる。 「な、に……」  体が冷える。いや、激しく燃えるほどに熱くなる。まるで全身がバラバラになるのではないかと思うほどの激痛が襲う。  わけのわからない恐怖に、記憶が勝手にガルグ時代を思い出した。泣き叫んでも誰も助けてくれない苦痛の世界。その恐怖がまた蘇る。 「守る、って……」  言ったのに。もしかしたら義務や本能を超えた何かがあるんじゃないかと思いかけてしまっていたのに。信じようと、思ったのに。  しかし思考は身の内からせり上がる激しい炎に奪われ、崩壊していく。狂おしいほどの飢え。体には指先ひとつ、動かす力が残っていない。  ヴァルディースがレイスを見下ろす。険しい表情は、レイスを拒絶しているように見えた。レイスはただ、一筋涙をこぼすことしかできなかった。  大規模な魔気嵐が発生した。魔気嵐とは、魔力を乱反射させ、拡散してしまう嵐のことだ。魔力を主な動力とする国にとっては大惨事を引き起こす災害となりかねないため、各国によって常に警戒と観測が行われている。  その魔気嵐は今回東大陸、フェルディアス帝国領土、大砂漠と呼ばれる砂漠帯で起きた。折しもフェルディアス帝国と革命軍との最後の大規模な戦いの最中のことであった。通常なら帝国の技術力で発生を予測し、被害を最小限に抑えられたはずだったのだが、その時だけは予測が間に合わず、砂漠帯にそびえ立つ巨大な魔法科学都市、帝都フェルディエンは半分近くの機能を停止した。  そこへ魔気嵐対策を施していた革命軍は総攻撃をしかけた。その戦いの以前にすでに激減していた帝国勢力は、その攻撃によって壊滅。帝都フェルディエンは陥落し、ここにフェルディアス帝国が三代で築き上げた栄華は幕を閉じた。  そしてこの魔気嵐の影響は世界の壁を越え、小さな時空間世界の存在を二人に知らしめたのである。 「フェルディアス帝国が負けたみたいですね。ガルグもあの国には結構多額の投資をしていたはずなんじゃありませんか?」 「確かにそうですが、仕方ありますまい。ザフォルが好き勝手をしたこのような時にたかが国一つに拘っている場合ではございません。それに、あの国はどちらにせよ帝室がこれ以上持たなかったでしょう。一度崩壊してしまった方がその混乱に乗じて裏の支配は進むかと」 「という事は、ガルグがあの国を見限ったから負けたようなものですね。かわいそう」  明滅する光の道を歩きながら、アルスが楽しげに笑う。かわいそうという言葉は少しばかりロゴスに引っかかりを覚えさせたが、本気で哀れんでいるわけではない様子。まだ許容範囲だろうとは思えた。  発生した魔気嵐はロゴスとアルスにとって嬉しい副産物を置いていった。魔気嵐は以前から時空間世界との壁が薄れ、世界の狭間にある濃い魔力が現世の魔力に干渉して起きると考えられていた。今のところ確証を得ているのはおそらくロゴスとアルスのみだろうが、今回それが証明されたと言ってもいい。  魔気嵐が発生した地点の時空の壁をアルスが切り裂き、道を作った。何の準備もなく軽く手を払った程度である。その鮮やかな技は、おそらくザフォルにも難しく、アルスにしかできないだろう。ザフォルも、アルスがここまで覚醒しているなどとは思いもよらなはずだ。  ザフォルとアルスの接触は、ごくごく限られていたのだ。 「ああ、着きましたよ。砂漠の夢幻境界」  アルスが道の出口を指し示す。揺らめく夢幻のような、狭間の世界。誰がそんな名をつけたのかは知らないが、言い得て妙だとロゴスは思った。  ロゴスの目の前に広がっていたのは、砂嵐に包まれた荒廃した世界。その一点に、他の嵐の暴風とは明らかに違い、砂を巻き上げた豪炎が渦巻いていた。 「魔気嵐の源流のせいで炎狼も大暴れしてるみたいですね」  楽しみだなぁと、傍らでアルスが無邪気に笑った。

ともだちにシェアしよう!