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3章 忍び寄る闇の足音 9

 ロゴスは闇に包まれた人間の身体を抱えて、岩に張り付いた闇から姿を現した。炎狼ヴァルディースとその被験体がすでに分離していたことは誤算だったが、被験体の人間はすでに確保し、アルスと対峙する炎狼もすぐに捕獲できるだろうと思われた。魔気嵐のおかげで予定よりもたやすく任務は終了しそうだ。  炎狼は体内に埋め込まれた闇のかけらの浸食に抗っていたが、魔気嵐の不安定な魔力の中では、腕を再形成させるだけの集中力もなく、十分な力を発揮できていなかった。  ザフォルの反逆などという事態が女神シーヴァネアの末裔を女王として擁するメルディエル女王国に漏洩すれば、いくら弱体化しているとはいえ、余計な介入を招く可能性もある。こちらは早く片付けて、自分たちもザフォルの追撃に加わった方がいいだろう。  砂嵐の勢いが落ち着き、周囲も先ほどよりうっすらと明るくなってきている。魔気嵐も、そろそろおさまるのかもしれない。  まずはアルスと合流しようと、ロゴスは気配を探った。  闇が目の前でレイスを飲み込み、ヴァルディースの手元から奪い去った。誰より闇からの救いを求めていたのに、守れなかった。むざむざ奪われた。その悔しさに、レイスに繋がった意識を伝って、ガルグの闇が絡みつく。じわじわと、真綿で首を絞めるように、ヴァルディースをも侵食しようとしてくる。意欲を奪い、諦めと失望を植え付け、闇はヴァルディースの心を、身体を蝕んでいく。  魔気嵐は収まる気配を見せない。力を行使することができない。目の前で闇を操る少年は、表情を変えることなく淡々とヴァルディースを締め付けていた。  意識を失ってしまえば、それで終わりだ。闇の中に封じられ、またガルグのもとでレイスを被験体とした実験に使われるか、それとも他の人間に封じられるか。  もしかしたらレイスは、失敗作として今度こそ処分されてしまうかもしれない。それはある意味レイスの望む結果になるかもしれないが、そうなってしまえばヴァルディースはまた失いたくない存在を失うことになる。 「今度こそ、そういうのはイヤなんだよ」  後悔など散々した。ファラムーアを失った時にヴァルディースは荒れ狂った。それこそ何千年もの時間を生きてきたのだ。引きずってきた時間もその深さも、レイスとは比べ物にならない。  嘆いてわかったのは、ファラムーアが戻ってくることはないのだという事実だけだ。失ったものは返らない。そんなことはとっくの昔に知ってしまっている。  だからこそ人間と関わることを避けてきたとも言える。人間はヴァルディースと同じ時間を共に過ごすことはできないのだ。  だが、関わってしまった。よりにもよってとんでもないモノと。レイスと。  レイスを知るたびに情がわいた。苦しみに嘆く姿は哀れだった。けれど子供の頃の無邪気にユイスと笑う顔。グライルの優しさに触れ、ほっと安堵して笑う顔。そういう記憶を重ねて、ヴァルディース自身も安堵した。笑う姿を自分の目で見たいと思った。失いたくないと思った。生かしたいと思った。自分の目の前で、自分が触れられるあいつを、この腕に抱きたかった。 「ファラムーア、というのが、あなたの心に刺さっている後悔ですね。気づかずに消してしまったのか。ああ、だから兄さんに情をかけるんですね。自分と似てるから?」  アルスの言葉が頭に響く。 「けれど、兄さんはあなたではないしファラムーアという人でもありませんよ。あなたはあなたのエゴで兄さんを拘束したいだけ。ファラムーアという人への罪滅ぼしを兄さんに押し付けているだけ。兄さんはかわいそうですね。誰より愛されたがっているのに、結局身代わりに犠牲にされるんだ。まあ、それも兄さんらしい結末ですけどね」  アルスの言葉に、意識が惑わされる。失いたくないと思ったはずの意思が、ねじ曲げられる。  レイスは初めから死にたがっていて、周りのものをすべて拒絶していた。成り行き上仕方なかったとはいえ、それを生に引き戻してしまったのはヴァルディースだ。結果的にレイスをもっと苦しめただけだったのかもしれない。 「もう解放してあげたらどうですか? そしてあなたも、解放されればいい」  何もかも押しやって、闇に落ちてしまえば、壊れてしまえば、いっそ楽か。自我というものを失って、ただガルグのために力を供出するだけの、傀儡となってしまえば。  意識が遠のく。 「ああ、レイ兄さんは諦めたみたいですよ」  アルスの言葉に心がざわついた。レイスの思考がぷつりととぎれていた。助けてくれという声は、もう聞こえない。  結局一瞬だけだった。レイスの意識をこちらに向けることができたのは。あいつはとうとう自分から闇を選んでしまった。ヴァルディースには、レイスの心を取り戻すことはできなかった。  脳裏に、子供の頃のレイスの姿が蘇る。当たり前に笑っていたレイスの姿など、ヴァルディースでは二度と、目にすることはできないのだ。 「くそったれ……」  毒づいた呟きに、にこりとアルスが楽しげにヴァルディースを覗き込む。 「さすがにそろそろ落ちてくれますか? もうすぐロゴスが戻ってきますし、その時の兄さんの姿を見たら、どうなってしまうんでしょうね」  そんなものを見たくなどない。闇にとりつかれ、ガルグの傀儡になったレイスの姿など見たら、きっと、心が折れる。 「ほら、きたみたいですよ」  レイスが落ちていった闇が再びうねる。そこから現れるのは、もう一度生気を失ったレイスなのか。ガルグの闇が縛る以上、それを解放する手段はヴァルディースにはない。むしろヴァルディース自身、今にも闇に縛られ自我を再び失ってしまいそうだ。  レイスの心が聞こえなくなる状況など、以前に戻っただけなのに、なぜたったそれだけのことでこんなにも虚しく、不安になるのだ。 「いっそ、ここでお前と落ちてしまうのもアリか?」  ヴァルディースは自嘲した。こんなことを考えるのはおかしい。ヴァルディースには、炎を司る役目がある。レイスのためだけに生きているわけではない。  だが同時にヴァルディースにはレイスが生きてきた17年間の記憶があって、共に過ごしてきたような錯覚をしてしまう。  だからって、すべて諦めて投げ出して共に消えようだなどと思うのは間違っていると思うのに。 「ファラムーアと同じようなことを考えるのはやめてほしいなぁ」  風が突如として乱れ、砂嵐がすべて消え去った。真っ白な光が周りを覆い、ヴァルディースを拘束していた闇を消し飛ばす。  どこかで聞いたことがあるような男の声だった。しかしヴァルディースの記憶にはない。ただ、この気配をヴァルディースはずっと昔から知っていた。懐かしい風の気配だ。  まさかと思った。視界が戻っていく。闇が消え失せ、魔気嵐も弱まり、周囲を覆っていた砂が静かに地面へと落ちていく。  小さな小精霊、とりわけ風の精霊が今までにないくらい喜んで、現れた人影の周りで踊っていた。  一人の男が、剣で空を凪いだ。一人が気を失ったアルスを抱き上げ立ち上がる。そして駆け寄ってくる風の精霊を抱きしめ、その男はヴァルディースを振り返った。にっかりと白い歯を見せて笑う金と黒のまだら髪の青年は、ヴァルディースになぜかファラムーアと、そしてユイスレイスの姿を思い起こさせた。

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