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3章 忍び寄る闇の足音 11

「ッ、レ——イス!!」  ヴァルディースは吼えた。全身全霊でレイスを呼んだ。ヴァルディースの声はレイスには届かない。レイスにヴァルディースの思考を読み取る能力はない。そんなことはわかっている。けれどヴァルディースは叫ばずにはいられなかった。  レイスの心が聞こえないなど信じたくなかった。いっそ最初の頃のようにヴァルディースに狂気を向けるだけだって構わない。何か、何かあいつが存在するという証が、どこかにないのか。  ついこの前までうるさいくらいにヴァルディースに侵食していたではないか。それが今はどこにもいない。本当に、アルスの言う通り闇に自我を明け渡してしまったのか。 「相変わらず騒々しい」  剣を払い、セリエンが浄化した砂浜に、不意に緑の芝生が生まれた。柔らかな歌声が草木の芽吹きを促す。芝生は一瞬で若木となり、別れた枝は緑髪の少女を生んだ。美しくも表情の乏しい淡々とした姿は、ヴァルディースでさえ数百年ぶりにその姿を目にした大地の精霊長ユーアだ。 「あなたの眷属なら、ロゴスが連れて逃げた」 「ど、こだ!」  ユーアの台詞に大きく心がざわめく。フェイシスは意識がなく、ユイスに状況を説明できるほどの冷静さはない。他にも人間の女の姿が二人ほど見えたが、瘴気が消えた途端に倒れ込み、セリエンがすぐさま駆けつけていた。他にヴァルディースの求める情報を得られそうな存在はいなかった。 「激しい炎は嫌い。木々が泣く」  しかし詰め寄ったユーアは腕の中でするりと形を歪め、枝ごとヴァルディースから身を離す。相変わらず人の話をまるで聞こうとしないマイペースぶりに、苛立ちがつのる。  おそらくここでは罠が張られていたのだろうが、この状況から考えられるとすれば、そのことに即座に気づいたロゴスが反撃し、脱出をはかった。フェイシスとユーアの罠をまともに受けているなら、ロゴスもただでは済まなかっただろう。逃れたにしても、捨て身の攻撃でかろうじて、というところのはずだ。  どちらにせよ、逃れたのであればヴァルディースとアルスの側にも何かあったと考えるのが自然だ。  その中で、レイスを捨てずに連れ去ったとすれば考えられる理由は一つしかない。レイスに残った魔力をロゴスの回復のための糧とする。 微々たる魔力しか残ってはいないとはいえ、背に腹は変えられない。ガルグにとってレイスはヴァルディースの入れ物でしかなく、人質としての価値などないのだ。  魔力が全て闇に吸収された場合、たとえ上位精霊でもその痕跡は跡形も残らない。そうやって、創世の聖戦時、人間と共に戦った多く精霊たちはガルグの闇に消えていった。  もしそんなことになっていれば、レイスなどひとたまりもない。 「やっと、死ぬことを諦めかけてたんだぞ、あいつは!」  やっと、ほんの少しだけ、前向きになりかけてたのだ。全てを失った絶望に駆られて、自分を壊すことしか考えなかったレイスが、ようやく自分を傷つけることをやめた。ようやく、ヴァルディースの方を見るようになってくれた。ほんの僅かずつではあったが穏やかな心を取り戻してくれていた。その姿に、どれほど安堵したか。  ヴァルディース自身やっと、自分の中でもレイスのことを受け入れようと思えていたばかりだった。最初はよくわからない人間風情と思っていた。けれどレイスのことを知るうちに、レイスが哀れに思えていた。守っていかなければならない存在だと思えた。この先自分と未来永劫添い続けるのだと、人間でいうならそれこそ、レイスこそが伴侶であると。  ヴァルディースは踵を返した。 「おい、どこ行くんだ」  メイスに呼び止められる。 「ロゴスを追う。ここにいても埒があかん」  獣の姿に戻り空を蹴る。それにメイスが慌てて組みついてこようとした。 「待てって、闇雲に探したって仕方ないだろう!」 「じゃあどうしろって言うんだ」  感情が炎となって荒れ狂った。渦巻いた炎がメイスを襲い包み込む。その瞬間風の精霊たちの悲鳴があがった。  ヴァルディースはハッとした。その悲鳴に激しい後悔が揺さぶられ、全身に悪寒が走った。  その隙を見逃さなかったようにメイスとヴァルディースの間に割って入った影があった。剣が炎を弾く。白い衣が舞い、強い光が弾けてヴァルディースを眩ませた。剣から発された光がヴァルディースの炎を押し包み、分解して霧散させてしまった。 「精霊の中では炎が最も血気盛んだというが、なるほど。しかし、長たる者、冷静さを欠いては何もできはしまい」  ヴァルディースの前にセリエンが立ちはだかっていた。呆然とヴァルディースは立ち尽くした。体から力が抜け、その場に頽れる。 「炎狼ヴァルディース」  セリエンの傍らから人間の女が進みでる。老人というほどではなく、背筋の伸びた凛とした立ち姿の女だった。  女がどこの誰なのかは知らない。おそらく高貴な身分というやつなのだろうが、ヴァルディースにはそんなことはどうでもよかった。 「私はメルディエル女王シーヴァネアです。あなたの気持ちはお察しします。ですが、我が国の領海は広大です。捜索は私達に任せてはいただけませんか。ロゴスがこの国にまだ居ることが確かであれば、私たちも見過ごすわけにはいかないのです。ですからどうか、今はこらえてください」  年月を感じさせる小さな手が、ヴァルディースの手を包み込む。うるさいと振りほどきたかった。けれど、それはできなかった。  ヴァルディースはもう一度大海に向かって吼え猛った。

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