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4章 水の都に迫る戦禍 1

 呆然と、ヴァルディースは城壁に腰掛けて海を見つめていた。島の断崖に作られた水晶の城からは、メルディエルの海と連なる島々が一望できる。  何も考えずに潮風に吹かれて海を眺めていると、まるでここしばらくのレイスとの日々が、全て夢か幻のようにすら思えていた。  しかし全てまぎれもない現実であり、レイスは奪われ、ロゴスは逃走した。  闇の侵食が酷かったフェイシスは、メルディエルの設備で浄化が進められてはいるものの、未だ意識は戻らない。復活したばかりのユイスはフェイシスにつきっきりだ。  ロゴスの行方はメルディエルの精鋭が昼夜徹して捜索に当たっているが、特定できてはいない。はっきりと分かるのは国境に張り巡らされたガルグの探知網にかかった形跡がないため、依然としてメルディエル国内に潜伏しているということのみ、だそうだ。セリエンが先ほど そう言っていた。  さすがにメルディエル国内では、幹部クラスのガルグでも気づかれることなく外部に接触することは不可能だ。  闇を唯一浄化できるのは魔力の中でも特殊な、光という属性だけだが、その光で操る術式がメルディエル中に張り巡らされている。  メルディエルが創世の聖戦から数千年経った今でも、ガルグにとって世界最大の対抗勢力となり得る理由がそれだ。  そしてそれを維持しているのがメルディエルの神官であるセリエンと、二振りの聖剣だ。  しかし、ヴァルディースにはそんな事はどうでもよかった。ここにレイスはいない。ロゴスを懐に閉じ込めることができたのは確かだが、それ以上の打つ手は乏しい。メルディエルの情報待ちという状況は、苦痛でしかない。  拳に込めた力が自分の身を抉る。ぎりりと、歯をくいしばる。今すぐにでもロゴスの行方を探しに行きたい。そう思うのに、今の自分には手も足も出ない。せめてレイスの意識が僅かでも流れてきてくれるなら、気配をたどって追いかけることができるというのに。 「ヴァルディース」  不意に誰かに呼ばてはっとした。顔を上げるとすぐそばにメイスの姿があった。 「声かけないと気づかないってことは、あんたもよっぽど余裕がないみたいだな」  メイスの苦笑につられて口の端を釣り上げようとしたが、正直笑えるような状態ではなかった。メイスを取り巻く風の小精霊たちが、酷くヴァルディースを憎み、嫌っているというのもある。原因は明白だ。  感情に駆られてメイスを襲った。だというのにメイスの態度が変わらないことが、逆にヴァルディースを困惑させた。  メイスは最初から穏やかだった。だが、メイスがファラムーアの息子だというなら、ヴァルディースはメイスにとって仇となるはずだ。憎まない方がおかしい。  今更ながらにその事実を認識してぞっとした。急に恐怖がこみ上げてきた。自分の仇に息子を託さなければいけなかったメイスの胸のうちは、実際にはどれほどのものだったのだろう。ヴァルディースには想像も及ばない。  人間の家族というものはヴァルディースにはわからない。その代わりレイスの記憶が重なる。母親を、ユイスを殺してしまった時の計り知れない恐怖、後悔、自分自身への憎悪。それがヴァルディースの中に蘇る。  ファラムーアを失った時の後悔が、罪悪感が、数千年経てヴァルディースを支配しそうになる。 「お前は俺を消してしまいたくはないのか?」  メイスが表情を強張らせた。  胸が破裂しそうなほどに大きく脈打つ。  精霊は魔力が存在する限り消えることはない。ただし例外がないわけではない。それは巨大な闇に魔力ごと取り込まれる時。それから自分と同質量かそれ以上の魔力とぶつかり合う時。魔力同士がお互いの存在を打ち消しあい、損耗した結果、双方が消滅する。  基本的に精霊は属性が異なっても争ったりはしないから、滅多にそんなことは起きない。だが、精霊大戦の折に人間と深く関わりあった精霊たちの中で、そういうことが存在した。  ヴァルディースがファラムーアを焼き滅したのも、その結果だ。  今もしヴァルディースが消滅することがあるとすれば、他の精霊の長と本気でぶつかり合った場合だが、長同士ともなるとおそらくこの世に存在する双方の属性の魔力ごと消滅することになる。はるか昔、先代の水の精霊長がこの世から水の魔力ごと消滅したことがあると、伝え聞いたことがあった。  魔力を失えば炎精たちの多くもいずれ消え去ってしまう。  地精のユーアや水精のフェイシスとは、本気でぶつかることなどあり得ない。しかし風精はどうだろう。  メイスの周りには好んで風精が集う。それは風精の長を継承した証だ。  メイスは、その身と引き換えにであれば、ヴァルディースを討ち滅ぼすことができるのかもしれない。 「お前なら、俺を……」 「ちょっとお待ちなさい二人とも!」  だが、ヴァルディースが思わずその言葉を発してしまいそうになった時、大量の水が上からヴァルディースを襲った。目の前でとばっちりを受けたらしいメイスも、ずぶ濡れの姿で硬直している。  振り返ると、水桶を抱えたユイスが真っ青になって立っていた。その桶の中から、金切り声が響いた。 「人がひどい目にあってるっていうのに、あなた方は本当に私をゆっくり休ませてもくれないんですから! ヴァルディース、あなたは水でもかぶって反省しなさい。メイスも、今ヴァルディースに詰め寄るつもりなら、代わりに私がお相手しますよ」  ビシッと腰に手を当てて桶から顔を出したのは、いつもの10分の1程度のフェイシスだ。  キンキンとフェイシスの声が頭に響く。確か、闇に深く侵食されたせいで、意識も戻らないのではなかったのか。  いや、今はそんなことはどうでもいい。滴り落ちる水滴とやまないフェイシスの金切り声に、ヴァルディースにはだんだんと苛立ちがこみ上げていた。 「よくもやってくれたじゃねぇか人面魚。俺はお前が今回の件を黙ってたこと、まだ許したわけじゃねぇぞ」 「人面魚って、言うに事欠いてあなたって人は! この件はザフォルがどーしても、って言うから仕方なかったんですって!」 「だからって人のこと囮にしやがって。今日こそてめぇの水分全部蒸発させてやる」 「やるってんならやってみなさいよ馬鹿狼。あなたの炎なんかいくらでも消火してあげますからっ」  ヴァルディースは拳の中に炎を凝縮した。火花が周囲に弾け飛び、激しい熱風が巻き起こった。同時にフェイシスも城の上空に大量の水を集め出した。巨大な魔力に呼応して、メルディエル上空に暗雲が立ち込め雷鳴が轟く。荒れ狂う水と炎は豪雨と乱気流を呼び、水晶宮を覆う結界が大きく歪み、軋んだ。

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