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4章 水の都に迫る戦禍 3

 胸ぐらをつかまれ、きつくにらみつけられる。その迫力に、ヴァルディースは気圧された。何か言うべきであるはずなのに言葉が出てこない。  先ほどフェイシスに止められたことで冷静になれたはずだというのに、メイスの感情を前にするとまた体が竦む。そして、ヴァルディースが思うこととは違う言葉が、口をついて出そうになる。  強張った手が震えていることに、ヴァルディースは気がついた。 「らしくないんじゃありませんか? ヴァルディース」  そんな時、硬直してしまったヴァルディースとメイスの間に割って入ったのは、またしてもフェイシスだった。 「もう一度水かけてやりましょうか? さっきだってまるでレイスの意識に乗っ取られた時のあなたみたいでしたよ」  甚だ不本意ではあったが、その言葉にはっとさせられた。  フェイシスはよくわかっている。伊達に何千年も腐れ縁をしてきたわけじゃない。今のヴァルディースの思考には、レイスの記憶と思考が少なからず影響している。それは間違いない。ただ、ヴァルディースの後悔にレイスの記憶が干渉しただけだと片付けてしまうのは、また違う気もしていた。 「俺は……」  何を恐れているというのだろう。ファラムーアのことは後悔しかないが、ヴァルディースにとっても過去のことで、メイスにとっても覚えのない他人事。ましてレイスに至っては、そもそもファラムーアの存在すら知らないはずだ。  だとしたら何が一体ヴァルディースに脅迫観念じみた罪悪感を与えているのか。  メイスを見据える。その強い眼差しが、ひどく恐ろしく思える。そこに不意に炎の影が重なった。悲鳴と絶叫が耳の奥に響いた。 「ああ、そうか……」  ヴァルディースの頬に涙が落ちた。その瞬間、ヴァルディースは理解した。 「確かに、俺にはファラムーアのことにしろ、レイスのことにしろ、お前に対する後ろめたさしかない。だが、俺はレイスを諦める気はない。今、その気持ちが余計強くなった。あいつは後悔と死ぬことしか考えない大馬鹿野郎だ。やっとそれに諦めがついたばかりだった。だからロゴスに捕まれば、きっと喜んで自分から消えていく。冗談じゃない。俺はあいつをぶん殴ってでも連れ戻さなきゃならない」  アルスに言われたことがずっと引っかかっていた。ファラムーアへの罪滅ぼしを、代わりにレイスにしているんじゃないのか。ヴァルディース自身そうかもしれないと思っていた。だが、違う。レイスに対する思いは、そういうものじゃない。 「俺の中にあるあいつの記憶は、メイス、お前に殺されたがっている」  それを告げた瞬間、メイスの腕から力が抜けた。愕然とした顔が、ヴァルディースを見つめる。  守ろうと、救おうとしていた息子の意思が、殺されたがっているだなどと聞かされて、衝撃を受けないわけもない。  周囲もしんと静まりかえる。ユイスの顔も血の気が失せて蒼白になっていた。さすがにヴァルディースも胸が痛んだ。 けれどこれがヴァルディースしか知らない今のレイスの事実だ。 「俺は、正直あいつをお前たちに会わせたくない。ユイスのことも、まだ何も言ってなかったしな。やっと忘れかけたところだった。今思い出させたら、またあいつは壊れかねない。いっそ、このまま消えた方があいつにとっては幸せなのかもしれない」 「っ、ふざけるな! あいつが消えていいわけがないだろう! おれは……!」 「当たり前だ!」  激昂したメイスに逆にヴァルディースはつかみかかった。メイスが感情をむき出しにすることは当然だ。だが、それはヴァルディースだって同じなのだ。 「俺がレイスを見ていて一番腹がたつのは、あいつが独りで勝手に勘違いして見当違いのことに絶望してることだ。確かにあいつがやったことの事実は消せない。だが、あいつにはお前もユイスもいる。そして二人ともあいつを許して受け入れている。けど、あいつはきっとそれを受け入れられない。それに、腹がたって仕方ない」  ああ、そうだ。レイスと出会ってからずっと思ってきた苛立ちと執着の原因はこれだ。ヴァルディースも似たような境遇に陥った。けれどヴァルディースは消えようとは思わなかった。ヴァルディースには同族の精霊たちも、なんだかんだと世話を焼きたがるフェイシスのような奴もいた。  レイスはしかしずっと独りだと思い込んでいる。事実を伝えなかったと言うことはあるが、レイスは伝えたとしてそれを受け入れることができない。周りを見ようともせず、自分で自分を孤独に追い詰める。  だから腹が立って、そして放っておくことができない。 「あいつが求めてるものは、ただただ家族の温もりだ。けどな、実際の家族であるお前たちに、あいつが罪悪感しか抱いていない以上、お前たちに安らぎを求めることが、あいつにはできないんだ」  呆然とするメイスに訴える。表情がこわばり、歪み、ヴァルディースの腕にもたれるように、頽れた。 「家族、だってのに、か……?」 「家族だから、だろう」  顔を覆ってうずくまるメイスの肩に、そっと手をかける。震える肩が、ひどく哀れだった。 「兄さん……」  ふと、息をつくユイスがメイスに歩み寄った。 「僕は、レイの気持ちもわかるんだ。たぶん僕たちに出来ることは、レイを信じて待っててあげることだけなんだよ」  寄り添い、メイスを支えて抱き起す。そのユイスの表情は切なくはあっても、穏やかで彼らしい温かな笑みだった。 「別れる前、レイは言ってた。『独りにしないでくれ』って。『お前が信じてくれなかったら、オレは誰を信じればいいんだ』って。最後まで、レイは僕のことを頼ってくれてたんだって、その時気づいた。なのに僕は結局レイを信じることも守ることもできずに、独りにしてしまった。きっと僕じゃ、ううん僕だから、レイはもう頼ってはくれないと思う。正直すごく悔しい。僕じゃ、あんまりにも無力だから」  ユイスがまっすぐヴァルディースを見つめる。少し、気分がピリッと張り詰めた。 「ヴァルディースさんは、レイを見捨てないって言った。でも、今だけじゃなく、これからもずっと、僕たちの代わりにレイと、一生一緒にいてくれますか?」  ユイスの問い。答えは決まっていた。 「あいつがそう望んでくれるならな」 「じゃあ、大丈夫だ。レイは、素直じゃないけど、レイ自身や僕たち家族を大事にしてくれる人は、絶対大事にするから」  にこりと微笑んだユイスに勇気付けられた。 「ヴァルディースさん、レイをよろしくお願いします。レイは僕の、大事な、本当に大事な、たった一人の弟なんだ」  傍で、メイスがまるで娘を嫁に出す父親の気分みたいだとぼやく。それに思わず吹き出しつつ、ヴァルディースはユイスに向かって、当然だと頷いた。

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