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4章 水の都に迫る戦禍 4

 レイスの意識はひどくぼんやりとしていた。視界もはっきりとはせず、見えても目に映るのは薄暗い影ばかり。聞こえる音もひどく遠い。  ただ、なんだか懐かしい声が聞こえた気がして、レイスは今にも閉じようとする意識をかろうじて奮い起こした。  どこから聞こえるのだろうと視線を巡らせようとするが、身体は重たくてまるで動かない。しかし薄暗い闇の中で、視界の端にかすかに鮮やかな焔が映った気がした。  身体が自然とその影を追った。目に映ったのはきらめく金色と、鮮やかな緑の石。  それがすごく懐かしいと思った。  レイスは足掻いた。もっとそれをよく見たい。近づきたいと思った。触れたいと。  目を大きく見開いた。手を必死で伸ばそうとした。 ——レイを……  それがそう呼んだ。  穏やかな微笑みが目の前にあった。自分はそれを何よりよく知っていた。  レイスの頰に涙がこぼれた。思わず笑っていた。同時に激しい後悔がレイスの全身を包んだ。頭を抱え、身を掻きむしって苦しみ悶える。目の前に映ったのはユイスだった。  ユイスが笑っている。生きている。確かレイスはユイスをこの手で殺したはずだ。ガルグの闇に侵食され、弄ばれて、自分自身の持つ炎で、母と同じように焼き滅ぼした。  炎に包まれた時のユイスのもがき苦しむ姿が、絶叫が、今も目に、耳に蘇る。けれども目の前のユイスは嬉しそうに穏やかに笑っている。 ——おれは……  もう一つ声が聞こえた。穏やかな低い声。それから視界に入り込む金色と黒のまだら髪。レイスの頭を撫でてくれた優しくて温かな大きな手の感触が、レイスの中に蘇る。 「メイ兄……」  ユイスとメイスが顔を見合わせて笑う。どういうことなのだろう。メイスも死んだと思っていた。確かに死んだことを見たわけでも聞いたわけでもない。  もしかして本当は二人とも無事に生きていてくれたのか。じゃあ、自分がさらわれたこともガルグで弄ばれたことも、全部夢だったのだろうか。  二人に会いたいと思った。触れたいと思った。けれど、いくら手を伸ばしてもレイスの手は二人に届かない。必死に呼びかけても、二人にレイスの声は聞こえない。 「気づいてくれよ」  オレはここにいるのに。そう、レイスは叫びたかった。見えない壁はレイスを拒むようにその幸せな光景を遠ざける。  そして視界の奥にその姿を目にして悟った。現れたのは金色の長い髪の女の姿。それから黒づくめの男。男がフードを脱ぎ去ったそこには、血のような赤い髪があった。  二人に気がついて、ユイスとメイスが振り返る。メイスがグライル、と呼んだ。そしてもう一人の女がユイスをそっと抱きしめた。  ボロボロと涙をこぼすユイスが、女の体をきつく抱きしめ返す。グライルがなぜか女の傍らに寄り添っていた。  目の前の光景はがらがらと音を立てて崩壊し、闇の中に消えていく。  ああそうか、とレイスは納得した。 「オレがいないからか」  今までの事が全て夢や幻で、あれが現実であるならば、グライルがそこにいるわけない。あれはレイスが大切だった人たちの世界。レイスが行けない世界。レイスが壊してしまった世界。レイスを拒絶するように閉ざされた世界。  レイスがいなければ、あの光景は壊れることなどなかった。レイスがいないから、彼らは幸せそうに笑っているのか。  あれは、レイスの夢か。それとも、闇に堕ちるレイスが垣間見た、死後の世界というものなのか。  この手で消し去った母の姿まであったではないか。嬉しそうにユイスをしっかり抱きしめたではないか。レイスではなくユイスを。 「オレは……!」  ここにいるのに。本当ならあの中にいたはずなのに。わかっている。自分には死んであの中に入る資格はない。許されるわけがない。あの光景を壊したのは他ならない自分なのだから。  レイスは叫んだ。叫んだつもりだった。しかし声は喉の奥から絞り出されることはなく、うずくまって身を搔き抱いて、震えるだけ。  死んで夢を見ることも許されない。闇の中にたった独り取り残されるだけ。 「誰か、オレを殺してくれ……」  呻いた自分の前に、不意に焔を纏った大きな獣の姿が現れた。どこかで見たような気はしたが、どこで見たのか思い出せない。  獣は一瞬驚いたように目を見開いて、こちらに駆け寄って来ようとする。迫る獣に、レイスは身を投げ出した。いっそその牙でレイスの喉笛を食いちぎってくれたなら。そう思ったのに、重なる瞬間、獣はレイスを見失ったように首を巡らせ、唐突に闇の中に消えてしまった。  ただかすかに、諦めるな、と言われた気がした。  一瞬の邂逅。どこで会った獣なのかもわからないのに、それでもなぜだか嬉しかった。そしてその姿がもうどこにも見当たらない事が、ひどく寂しかった。  闇に独り倒れこみ、泣きはらす。もはやいつこの苦しみが終わるのか、それしか考える事ができなかった。  ロゴスは詰めていた息を吐き出した。罠に嵌められ、アルスを奪われた。ザフォルとメルディエルの女王が手を組んでいただなどというあり得べからざる状況。しかもロゴスはメルディエルの国内で、精霊長たちから受けた傷を癒すこともままならず、身動きも取れない。  ガルグの組織と接触をはかるには最低限メルディエルから脱出しなければいけないが、強行突破するにも炎狼の器となった人間を喰らう程度では回復しきることは難しかった。  しかし人間を棄てずにいたのは悪くない選択だったようだ。先ほどは危うく炎狼に気づかれそうになったが、炎狼とのつながりを利用して、敵の様子を探る事ができるらしい。うまく制御すれば気づかれずに情報を収集する事ができる。  それに、ガルグの民がメルディエルに留まればメルディエルの探索網にかからずにいることはできないが、人間の中に潜むことである程度リスクを回避することはできるようだ。  メルディエルの城下町を歩み、水晶宮を仰ぎ見ながら、立ち並ぶ店舗のショーウィンドウに映った自分の姿を自嘲する。  そこに映っていたのは金色の長い髪を一つに束ねた、人間の少年の姿だった。

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