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4章 水の都に迫る戦禍 5
ヴァルディースは自分の頰に、一筋涙が溢れ落ちたことにはっとした。今一瞬レイスの声が、姿が、目の前に現れたような気がしたのだ。ほとんど呻き声のようなものだったが、確かにいつかのレイスのように、殺してくれ、と泣いていた。
「レイス?」
ヴァルディースの前に喰ってくれと言わんばかりに身を投げ出して、生を諦めようとしていた。
酷く悔しかった。
ヴァルディースは何度レイスにもうやめろと言っただろう。一度は前を向こうとしてくれたはずだ。それがこのほんのひと時でまたその気持ちを奪わせてしまった。そう思うと悔しくてたまらず、手を差し伸べて思わず諦めるなと叫んだ。
しかしその瞬間姿はかき消え、それ以上の声も気配も探ることができなかった。一瞬だけ湧き上がった嬉しさと寂しさを残して、虚しいまでの静寂がヴァルディースの心をかき乱した。
「くそっ!」
感情を抑えることができずに、ヴァルディースは拳を水晶宮の城壁に叩きつけた。
気づいたメイスが家族の再会の輪から離れて、訝しげにこちらに寄ってくる。その奥で、ユイスとユイスを抱きしめた女が固唾を飲んでこちらを見つめていた。
「一瞬レイスの声が聞こえた。ただ、それ以上はわからん」
家族の姿にレイスが反応したのだろうか? あれは確かに今のレイスだった。ヴァルディースの中にある記憶ではなく、声が聞こえた。姿も見えた。レイスからヴァルディースに接触することなどできなかったはずだが、何かのきっかけで繋がったのか。
だとすればそれはつまり。
「レイ、生きてるんですね」
ユイスが声を震わせて呟いた。
歓喜の声が上がる。確証はない。しかし、それ以外に考えられない。
「だから言ったじゃない。クソ生意気なあの子がそう簡単にくたばるわけないでしょ!」
甲高く叫んだ女がユイスの体をきつく抱きしめる。金色の長い髪に深い緑の瞳はユイスやレイス、そしてその二人の母ともよく似ていた。
「姉さん痛いよ」
先ほどアルスを捕らえた時にいた黒衣の男が、彼女を伴って現れた。ユイスとレイスの姉であるエミリアだ。
レイスの記憶の中の母とよく似ていたが、性格はどうやら正反対らしい。
威勢のいい姉にもみくちゃにされ、苦しげに呻きつつも、腕の中のユイスは嬉しそうだ。家族と再会し、弟の生存がわかれば、当然か。
「早く、レイを連れ戻してあげなきゃね」
そうやってユイスが笑ったおかげで、ヴァルディースも少し救われた気がした。
「さっきもあいつは死にたいと叫んでいた。けど、あいつは本当に死にたがっていたわけじゃないんだと、俺は思う。ただ、生きている限りあいつは苦しむ。その苦しみから逃れる方法が、あいつには死ぬ事以外、思いつかないだけだ」
それが、乗り越えなければいけない、いや乗り越えられることだと気づきもせず、周りにいるレイスを大切に想う存在たちが、どれほどあいつを生かしたいと思っているかということにも、気づかないまま。
「レイが戻ってきたら今度こそそんなこと言わないと思う。姉さんや兄さんだっているんだもん。エミー姉さんの旦那さんだってレイのお師匠さんなんでしょう? 絶対喜ぶよ。母さんがいないのは残念だけど、村で待っててくれるんだし、早くみんなで帰ってあげなきゃね」
純粋に再会を待ちわびるユイスの言葉に、姉エミリアが複雑な表情を浮かべ、傍らの夫グライルを見つめた。
黒尽くめのどこかで見たことがあると思った男は、ガルグにおいてレイスの養父をしていたグライルだった。どおりで見たことはあるはずなのに気配を全く覚えていないわけだ。フードを取った下から血のように赤い髪が現れ、そこでようやくヴァルディースも気がついた。
レイスを置いてどこかへ消えた男。てっきりガルグに処分されたものと思っていたというのに、なぜレイスの家族と共にいたのか。
レイスの代わりに問い詰めたかったが、押し黙ってしまった姉やその夫に、ユイスが首をかしげている。まだ何も知らないらしい、ということは明らかだ。さすがにそんなユイスの前で、事実をつまびらかにすることは躊躇われた。
「そうだな。母さんは村から動けなかったから、連れてきてやれなかった。悪いなユイ。レイを取り戻して、早くみんなで母さんのところに帰ろう」
メイスがユイスの肩を抱き、これから作戦会議になるからエミリアと一緒にいてやってほしいと、体良く理由をつけてユイスを締め出す。
ユイスは不承不承という形ではあったが、もう一度レイスをよろしく頼みます、と頭を下げてヴァルディースたちの前を立ち去った。彼は自身が足手まといであることを十分理解していた。もしレイスと意識をつなぐことができ、ザフォルが残していった術式で道を作ることが可能となったとしても、今度はヴァルディースがいる。今やユイスよりもヴァルディースの方がレイスとの繋がりは深い。
「いつまでもユイに隠し通せるものではありませんよ。それこそレイスが戻ってくれば最悪の形で露見するかもしれないのに」
フェイシスが城壁の上に置き去りにされた桶の中から、不満そうに呟いた。フェイシスの心配は最もだ。そうなればきっとユイスもレイスもお互いが傷つく結果となってしまうだろう。
しかしメイスは困ったように苦笑しただけだった。
「嫁さんにも言われたんだけどな。レイに殺されて死ぬ間際、魂だけの存在になったってのに、おれに会いにきてくれた。ユイとレイをよろしく頼む、って。それでもおれには、ユイに本当のことを打ち明けることができないんだ。おれ自身、まだ認めたくないんだと思う。こんなんじゃ情け無いだけなのはわかってるんだが」
メイスの言葉にフェイシスが嘆息し、水晶の城を見上げる。
「あなた自身の決断の甘さがこの事態を招いたと、少なからず思っているなら、あなたの口から必ず伝えてくださいな。ユイを傷つけるような真似は、私が許しませんよ」
どちらが親なんだかわからないなとぼやくメイスがまた苦笑しつつ、肩をすくませる。
「とりあえずシーヴァネア、いえ女王陛下がお呼びなんですよ。今はロゴスとレイスが先決ですしね。ヴァルディース。あなたもグライルのことが気になるんでしょうけど、今は置いといてください」
フェイシスに刺された釘に、思わず出かかっていた言葉を飲み込んだ。グライルは淡々とした表情で、先に王宮の奥へと向かって行く。
その態度に思わずヴァルディースはむっとした。
「なんなんだあいつは」
それがその時のヴァルディースの気持ちを全て代弁した苛立ちの言葉だった。
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