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4章 水の都に迫る戦禍 8

 馬車の扉が開けられた。 「神殿にでも寄って行くかい? 少しは落ち着くかもしれないよ」  泣きはらした姉と呆然としたユイスを見かねて、タトラが外を指し示す。その向こうに、離宮の建物と回廊でつながった白亜の神殿が見えた。  離宮に併設されたそこは、今は一般に解放されてはいないというが、次代が存在する場合、王女の勤めとして月に一度ここで祭祀が行われるのだという。 「光の聖剣には闇を払う力があるんだけど、人々の間では剣の光に触れると迷いや悩みを晴らしてくれるという言い伝えがあるんだ。そのメルディエルにある二振りの聖剣のうち、ここには神官殿が扱うものとは別のもう一振りが納められているんだよ」  はっとした。ユイスはソレの存在を思い出した。フェイシスが浄化設備の中でセリエンと話しているのをたまたま、ユイスは立ち聞いていた。 「ガルグの始祖を封じるには聖剣の力が必要。しかし王宮で拘束はできない。神殿で拘束する……」  神殿は離宮に併設されたこの場所だ。つまり今ここに、破壊者アルスがいるということか。  そもそも、精霊の加護があるとはいえ一国民ですらない自分たちをなぜこんなにも厳しい警護の中に置くのか、という疑問はないわけではなかったのだ。  ユイスは走り出した。姉とタトラが突然のユイスの行動に慌てて呼び止めようとする。けれど、誰もユイスを遮ることはできなかった。  ガルグの始祖アルス。会ってどうするというのかはわからない。ただ、会わなければいけないと、ユイスは強く思っていた。  予想外の当たりを引いたことに、ロゴスはほくそ笑んだ。  アルスは東の神殿に隔離されている。この情報をどれほどロゴスは知りたかったことか。  アルスの所在がセリエンの懐でないのなら、どうとでもなる。光の聖剣はガルグにとって人間の最終兵器ともいうべきものではあるが、島での一戦においても女王の力を借りた女騎士がようやく構えていられた程度。今現在その力を真に発揮できる者などセリエンしかいないのだ。  足元に広がった血の海に満足しつつ、ロゴスは手にした男の臓物に口付けた。外の様子を垣間見ながら粗末な食事をしなければいけなかったのは、正直ロゴスの美的感覚からすればあり得ないことであった。ゴミ溜めのようなどこぞの宿屋の奥に引きずり込んだ、蛆虫以下の男どもの断末魔では味気ないことこの上なかったが、それでも今は気分がいい。  寝台の上では白い裸体を全身血にまみれさせた炎狼の器が、焦点の合わない目で身を搔き抱いて震えている。  どうもこの器は炎狼に少なからず好意を抱いていたらしい。男たちの姿を炎狼やグライルに偽装させてやれば、予想外に美味な反応が返ってきた。多少傷はつけられたが、食後のデザートにこの人間を喰らい尽くすのも悪くはない。  しかし、そんなことをしているうちに器の縁者が神殿の深部にたどり着くだろう。機を逃すわけにはいかない。 「せっかくだ。アルスをお救いした後、炎狼の前でゆっくり料理してやるのも一興か」  おそらくその時の炎狼の怒りや憎しみは、ロゴスにとって至高の味わいを醸し出してくれることだろう。  この身が滅びることが免れないならば、最期の晩餐くらいは贅を凝らしたいではないか。  ロゴスはレイスと呼ばれる炎狼の器を抱え上げ、その身にもう一度、自らの闇を埋めた。  ここで待てと言われて、控え室に押し込められた。女王とやらに会うにはかなり時間がかかるものらしい。  いつの間にかグライルの姿が消えていたが、メイスの話を察してのことだと、ヴァルディースは思っていた。もともとガルグにおいても間諜のようなことをやっていたはずで、ここでは目立つ黒づくめの割に、人に紛れることには長けているのだろう。そのうち頃合いを見計らって戻ってくるのかもしれない。 「で、結局、あの男には事情とやらがあったから見逃せってことなのか?」  部屋に案内されたことで中断していた話を思い出すと、メイスが懺悔でもするように顔を伏せ、深く息をついた。  レイスが母を殺したあの日のグライルの状況については、ヴァルディースも理解した。ガルグを裏切ったのもレイスのためだと言うのなら、結果はどうあれやむを得なかったのかもしれない。  だからと言ってヴァルディースの中に残る苛立ちが消えないのは、レイスが納得するとは思えないからかもしれなかった。 「おれ自身あの後、気持ちが整理できなくってグライルを殺してしまおうとも思った。こいつはガルグの手先だ、ファイナの、あいつらの母親の仇だって。グライルも拒まなかった。けどエミーが止めに入ったんだ。グライルもガルグの被害者の一人だって。悪いのは全部ガルグだ、って。それ以来かな。エミーがなんやかんやとグライルに世話を焼いて、いつの間にかああなってたよ。グライルもたぶんエミーには恩みたいなものを感じていたんだろう」  だから許してやれとは言わなくとも、今は見逃してやってほしいというメイスに、ヴァルディースは何も言えなかった。  メイスは知らないのかもしれないが、グライルとレイスの絆は深かった。無意識のうちにレイスはグライルのことを忘れようとしていたことから考えても、少なくともレイスの方は今も何がしかの想いを引きずっていることは間違いないだろう。  だからこそ、ヴァルディースには許しがたいのだ。グライルが今は実の姉と愛し合っているなどと知ったら、レイスは一体どうなるか。考えるだけで胸のあたりがむかついてくる。  正直、今のヴァルディースにはレイスとグライルの間に割って入ってレイスの心を奪い去るだけの自信など何もない。確かに眷属の本能のせいでレイスはヴァルディースから離れられないだろうが、それだけでしかないのだ。  いっそグライルが生きていたならいたで、それでもよかった。エミリアとの関係さえなければ。きっとレイスは自分を捨てて去った恋人を、許すだろう。そうなればヴァルディースは、レイスの存在を忘れてしまえば済んだはずだ。最初に思い描いた通り、お互いを求めることもできないほど遠く離れ、二度と関わらなければいい。  しかしそう思った時、ヴァルディースを言い表しようのない喪失感が襲った。  レイスを自分の手の内ではなく、あの男に委ねると言うことが、ヴァルディースには既に考えられなくなっていた。 「くそ」  胸が締め付けられる思いに、たまらず毒づいた。何も知らないメイスが申し訳なさそうに目を伏せる姿がひどく恨めしく思えた。

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