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4章 水の都に迫る戦禍 9

 不意にフェイシスがニヤニヤと、何やら不穏な妄想に取り憑かれたような笑みを浮かべ、ヴァルディースの周りにまとわりついてきた。 「考えようによってはよかったじゃないですか、ヴァルディース」  ゼリー状の本体が腕に巻きついてくる感触は、それだけでも対立属性のヴァルディースにとっては特別気持ち悪いものなのだが、さらに苛立ちを助長するだけのその表情には、もはや嫌な予感しかしない。とはいえここで無視し続けても余計鬱陶しいことになることはわかっている。 「なんなんだ、お前は」 「だって、恋敵が消えたってことでしょう?」 「こ……!?」  一瞬、その突飛な発言に思考が停止し、二の句が継げなくなった。とっさにメイスの方を見てしまったが、隣でメイスはなんのことだかわからなそうに首を傾げている。 「なんだ。あんた、グライルと女を取り合ってでもいたのか?」  その言葉にほっと安堵するべきなのか、それとも訂正するべきなのか。若いなぁと、じじくさくつぶやきながらも疑念を抱いてすらいないだろう純粋な笑みを浮かべられれば、さすがのヴァルディースもそれがレイスのことであるなどと言えるわけもなく、気まずさしかない。  しかし、たしかにヴァルディースはレイスを人間で言うならば伴侶にしたいと思っていたとはいえ、なぜフェイシスがそれに気づいているのだ。これは考えられ得る限り、最悪の状況だ。  ヴァルディースは、今まで感じたことなどなかった頭痛と言うものを覚えた気がした。  とはいえここで押し黙ってしまえば、フェイシスは肯定ととって余計有る事無い事吹聴し始めるかもしれない。とりあえず何かこの状況を取り繕わなければ。  ヴァルディースは大きく息を吸い込み、わなわなと肩が震えるほどの怒りをどうにか押し込めて、その言葉を絞り出した。 「フェイシス、てめぇ勝手な思い込みでありもしないことをほざいてんじゃねぇ」 「あらー? 否定するんですかぁ? 私、誰か一人に執着するあなたなんてそうそう見たことないんですけどねぇ」 「それは、あいつを眷属にしたから、であって」 「あらあら大変、お顔が真っ赤ですよヴァルディース。正直ここまでベタ惚れになってるとは私も思いもよりませんでしたけど。もう無駄なことはおやめなさいな。顔に書いてありますよ。レイス大好き、愛してる、って」  ごと、と背後で何かが床に落ちた。この国の気候に合わせて麻で編まれた色鮮やかな絨毯の上には、金細工の置物が転がっている。部屋に飾られていた置物をおそらく手持ち無沙汰になったメイスが眺めていたのだろう。メイスの顔色が真っ青なのは、高そうな置物を取り落としてしまったからなのか、それとも。 「フェイシス……」 「まあ、花瓶とか割れ物じゃなくてよかったですねぇ。なんともなさそうですよメイス」  悪びれるどころか、硬直したメイスを尻目に、フェイシスは何事もなかったようにしれっと置物を元に戻した。  柔らかい金細工は、どう贔屓目に見ても細い箇所がひしゃげて曲っている。なんともないわけがない。人間というものはこういう場合金銭で弁償しなければいけないというが、ここは世界に名だたる女王国の王宮。果たしてその金額は一体どれほどになるのだろう。  ひどく遠い目をして思考がパンクしてしまったらしいメイスの反応はない。 「メ、メイス……」 「アハハハ! アー、陛下ノオ召シハマダカナー……」  声をかけると世にも不気味な乾いた笑いが返ってきて、ヴァルディースは思わず身を震わせた。完全にこれは現実から逃避してしまっている。せめて後でユーアに頼んで金細工だけでも元に戻してもらった方がいいかもしれない。 「そ、それにしても、女王との面会にはどれだけ時間がかかるんだ。グライルの野郎も戻ってこないし」  不穏な空気からどうにか離れたくて、ヴァルディースは話をそらした。レイスとのことについて、ヴァルディース自身今は深く考えたくなかったこともある。  そもそも助け出すことができなければ何も始まらないのだ。女王の呼び出しがあったということは、おそらくロゴスの居所について何かわかったのだろう。これから女王、セリエンを交えての対策会議か何かが始まるはずだ。だというのに、こんなところで悠長に待っていていいのだろうか。 「まあ、陛下も準備にもうしばらくかかるんでしょう。お茶でも飲んでみたらどうです? さすが王宮だけあって、お菓子もとっても美味しいそうですよ。それとも歌でも歌って差し上げましょうか?」  フェイシスがあくまでのんびりとこの状況を楽しもうとしていることに、ヴァルディースは呆れた。目の前に差し出された琥珀色の液体には、何も心惹かれない。そもそもメイスはともかくヴァルディースやフェイシスに味の良し悪しなどわかるわけがないのだ。フェイシスが言ったのもきっとユイスあたりの受け売りだろう。  もしかしたらフェイシスなりに気を紛らわせようとしているのかもしれないが、これ以上長々待っているだけという状況に、ヴァルディースは耐えられそうになかった。 「向こうが来ないってんならこっちから行く」  本当に一曲歌い出そうとしていたフェイシスを無視して、ヴァルディース本体を晒し、存在を希薄化させた。精霊に本来人間が作り出した壁など意味がない。礼儀など考えなければ人間の一人や二人見つけ出して直接会いに行くことは造作もなかった。 「ちょっとヴァルディース、それはあんまりにも失礼ってものでしょう!」  しかし予想通りフェイシスが目を剥いて止めにかかってくる。絡みつかれれば振り払うことは難しく、その前に女王の元へ飛ぼうとした。一度会っただけの人間はわからなくても、セリエンの気配なら間違いようがないはずだった。 「待ちなさいヴァルディース!」  フェイシスが悲鳴のような金切声をあげた。その瞬間、ヴァルディースは心の底から凍りつくかと思うほどの寒気に襲われた。光に満ちたはずのこの国の一点に、唐突に濃い闇が湧き上がる。  メイスも同時に気づいたのだろう。強張った表情と目が合って、窓辺に駆け寄った。  空に暗雲が立ち込め激しい雷鳴が轟く。南国の天気は変わりやすいというが、しかしこれはそんな程度のものではない。 「離宮が……」  メイスが指し示した方向に、巨大な黒い闇が蠢いていた。東の、ユイスとエミリアが向かったという離宮の方角だった。

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