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4章 水の都に迫る戦禍 11

 起きて、と誰かが呼んでいた。女の声だったような気がする。どこの誰かはわからない。ただなぜか少し懐かしいような気もする声だった。  ガルグにいたような輩じゃない。そもそもあそこで生き延びる女などごくごく限られていたし、そういう人間特有の荒んだ声音ではなかった。もっと純朴な少女のような、それでいて長く生きた老女のような。よくわからない。  母親の声ではないことは確かだ。どちらかというと姉の方が近かったように思う。けれど姉は良く言えば溌剌としていて、あまり落ち着いた印象はなかった。  親戚や近所の誰かであるとも思えない。そもそも母は親戚に縁の薄い人であったし、父方なんて存在したのかどうかもわからない。  たぶんきっとまた何かの幻なのだ。この間も見たくもないものを見させられたばかりだ。今度は幻聴が聞こえたって何も驚くことではない。  散々嬲りものにされて、身も心もだるい。頭もはっきりせず、何かを考えることも億劫だし、目をあけたところでまたどうしようもできない苦痛にさらされて、絶望も通り越した極度の疲労を感じるだけ。それよりは何も感じず、何も考えず、眠ることもなくただ存在し続ける方がマシ。もう何もかもがどうでもいいではないか。  なのにそれではダメだとしつこくレイスを起こそうとする女の声が響く。鬱陶しいだけのそれは止む気配がない。  なぜ呼びかけなどするのだろう。ガルグがレイスの苦痛を餌にしたいと思うなら、せめてもうちょっとマシな騙し方をすればいい。  ロゴスに捕らわれた。身体の半分は既にロゴスに侵食されて、それでもレイスが未だ消えずにいるのは、何かしら存在させる理由があるからなのだろう。  それさえ終われば今度こそ、ようやく待ちわびていたものが手に入るかもしれない。最後の最後くらい、永遠の闇の中に消えていく夢を見させてくれたっていいではないか。 ——それじゃダメなのよ。ヴァルディースに伝えてほしいの。シーヴァネアを蘇らせてはダメ!  声が明瞭になった。しかし意味はわからない。ヴァルディースとは誰だ。シーヴァネアとはなんだ。聞いたことがあるような気はするが思い出せない。思い出したくない。それに、伝えろと言われても自分には何の手段もないのにどうしろというのだ。 ——起きてくれれば絶対に伝わるわ。ヴァルディースがあなたの声を聞き逃すはずがない。  必死に訴えかけてくる女の煩さに、レイスは耳をふさいだ。よしんば伝えたとしてそれが一体何になる。ガルグがこんな意味のないことをする理由はなんだろう。それともガルグ外の何者かによる干渉だろうか? もしそうだとすれば、余計に聞くことなどできるわけがない。ガルグの意にそぐわないことをしてしまったら、せっかくの千載一遇の機会が遠ざかってしまう。 「お願い思い出して、ヴァルディースがあなたに言ったこと。あなたの本当の願いは滅びることなんかじゃないでしょう?」  うるさい、と拒絶する。ヴァルディースっていうのは誰だ。そんなものは知らない。 「あなたは忘れたくないはずよ。彼を。炎狼ヴァルディースを」  炎狼という言葉にびくりと震えた。そういえばどれくらい前だっただろう。時間の感覚などもうわからなくなっていたが、確かに以前どこかで見たことのあるような炎の狼を見た。自分の前から消える間際、諦めるなと言っていた。  あの狼がヴァルディースか。記憶の姿に、炎色の髪をした男の姿が重なる。つい先ほどまで感じていたように、肌に触れた温もりが思い出される。どこの誰かも知らないのに、なぜかひどく恋しい。 「あなたがヴァルディースに惹かれるのは、あなたがヴァルディースの眷属になったからだけじゃないって、あなたはもう気づいていたはず」  砂嵐の中で、大きな獣に包み込まれた。それが優しくて、つい心が傾きそうになった。それはダメなのだと言い聞かせた。その気持ちは間違いで、自分の本心ではない。それにもし万が一自分が本当にあの獣に心を許してしまったとしても、死という願いが叶うことなどない。 「あなたが恐れているのは、自分が存在することで、周りの人を失うかもしれないこと。自分の周りから消えてしまうこと。だからもう二度とそんな目に合わないように、合わせないように、親しみを感じないように遠ざけて、自分自身を消し去ってしまおうとした。でも、それはとても寂しいことだったでしょう? 違う?」 「……ッ」  何も言い返せなかった。その通りだ。自分でも認めたくない本当の思い。わかってる。自分はとんでもなく臆病で、なさけないちっぽけな存在だということくらい。  ただ、温もりを恋しがって寂しさを感じまいと、頑なに強がっているだけ。でもなんでそれをこんな女に思い知らされなければならない。 「あなたの本当の願いは、死ぬことなんかじゃなくて、ずっと誰かが側にいてくれること。失わないこと。もう一度、子供の頃のような幸せを取り戻すこと」  ああそうだその通りだ。なんで今更そんなことを思い出させるんだ。  もうやめろと叫びたかった。せめてレイスは頭を抱えて強く首を振った。  レイスの本心をレイスの前でさらけ出し、貶めるのが狙いか。やはりガルグか。新たな責め苦を見つけたのかもしれない。いつまでたっても奴らは自分にまとわりついてくる。もう、いい加減にしてほしい。  見たくない現実から、いつもレイスは逃げ出してきた。目を背けた。抗ったところでいつも余計に悪化する。結局どこへ行っても逃れ切ることなどできず、絶望し、疲れきり、全て諦める。それを繰り返した。  ユイスを失った時にも諦めたはずだった。壊れたはずだった。それなのになぜかもう一度希望を抱いた。愚かに期待した。一体なんのせいでそうなったのかなんて覚えていない。  ただ、諦めきれなかったささやかな願い。レイス自身気づくことなく心の奥底にしまい込まれたそれのせいで、結局ガルグにつけ込むすきをもう一度作ってしまっただけだ。  疲弊し、レイスは身を投げ出して震えた。何度も何度も味わった。愚かに期待し、そして結局突き落とされる。もうたくさんだ。 「ごめなさい。あなたを傷つけたいわけじゃないの。ただ、わかってほしい。このまま闇に取り込まれても、それは消滅なんかじゃない。負の念に引きずり込まれて這い出せなくなってしまうだけ。闇に溶けて自我がなくなっても苦しみだけが残る。闇は無とは違うのよ。この世に本当の消滅なんて一つしか存在しないの。誰からも見えることなく、孤独に堕ちるだけ」  それの何が悪いのだ。今と変わらない。むしろ自我がなくなるだけいいではないか。 「でも、そしたらもう誰にも会えないのよ! あなたは覚えていないかもしれないけど、ヴァルディースは言ったわ。あなたと共に死ぬことはできない。むしろあなたと共に生きるしかない。って。あなたを眷属にしたのは確かにやむを得なかったからだと思う。ヴァルディースにも精霊の契約を破ることはできないし。でも今はそれだけじゃない。ヴァルディースはあなたを助けたがってる。あの子はダメだったら誰でもいい。あなたの双子のお兄さんでもいい。あなたのお父さんでも、あなたを愛してくれたグライルっていう人でもいい。みんなあなたを助けようとしているの。そういう人たちを信じて」  うるさい、とついにレイスは叫んだ。 「信じてなんになる! あの男だって最後にはオレをまた拒絶したじゃないか!」  叫んだ瞬間、女の声が唐突に消えた。同時に、自分で叫んだはずなのに、その言葉の意味がわからなくなる。  あの男とは誰だろう。嵐の中でレイスの力を奪い、切なく見下ろしていた赤髪の男。アレは一体誰だ。そもそもそんな相手、存在していたのだろうか。  闇がまたレイスに覆い被さる。意識がどんどん遠のいていく。また誰かの諦めるなという声が、微かに聞こえた。

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