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4章 水の都に迫る戦禍 12

 何をどうやってたどり着いたのかはわからない。ただユイスはまっすぐ走っていただけのように思う。  気がつけば目の前で剣に貫かれ、光に包まれて眠る少年に、ユイスは見入っていた。実物のようにはまるで見えない剣から放たれた光が、神殿内部の水晶に反射して、アルスの背に光の翼を与えているように見えていた。それが純粋に美しいと思った。  アルスと会わなければ。会ってなぜレイスをそんなにも苦しめたのか、問いたださなければならないと思ってここまできた。しかし死んだように眠るアルスに相対して、どうしたらいいのかがわからなくなった。  ユイスはアルスのことなど何も知らない。主人の館で文字の勉強がてら、子供向けのお伽話を読んだ程度だ。その時は極悪な化け物だと思っていたのに、そんな風にはちっとも見えない。ザフォルやフェイシスが、どうしてもガルグから引き離さなければいけないと言った理由も、ユイスには理解できそうにない。  ただの子供だ。まだ何もわからない子供だ。自分とレイスが故郷から引き離されたときと大して変わらないくらい。きっと、周りの大人に言われるがままだったに違いない。 「かわいそう、だよ」  大人の欲に翻弄されて、虐げられて、こんな風に自由を奪われて、この子が一体自分たちと何が違うというのだろう。  ユイスはアルスに手を伸ばした。その身に触れ、アルスを戒める光の剣をどうにかしようと思った。  ユイスの手が剣の光に触れる。ピクリと、その時アルスの指先が震えた。  ぞっと背筋を這い上がる怖気を感じた。  真っ暗な闇が目の前に広がった。闇はユイスの腕に足に絡みつき、ユイスを飲み込もうとする。  ユイスは絶叫した。全身が凍えるほどの冷たさに飲み込まれていた。必死でもがこうとした。けれどつかみどころのない闇に抗うことなどできなかった。  何か温かいものがユイスの腕を掴んだと思った。ほっと安堵したのはつかの間。その時にはすでに、ユイスの全てはユイスの腕を掴んだ何かごと、闇に呑まれた後だった。 「我が君、お迎えに上がりました」  遠くで誰かがそう呼んでいた。視界の全ては闇に覆われ、何が起きたのかユイスにはわからなかった。  氷の壁が破れない。  闇に呑まれたかもしれないユイスたちをどうにかしなければいけないはずだというのに、ヴァルディースは目の前のフェイシスと睨み合ったままだ。  南国の地に激しい寒風が吹き荒び、氷の粒が降り注ぐ。 「わかりたくもねぇな。アルスを消し去るためだろうがなんだろうが、それでどうして何も関係ないあいつらが巻き込まれなきゃならない! いつもそうだ。レイスはな、ガルグの身勝手で好き放題されてきた。それが今度はザフォルとお前らに変わっただけなら、今までと何が違う!」  叫んだ途端、身が凍えるほどのひときわ強い冷気が上空から降ってきた。ヴァルディースはフェイシスが本気であることにゾッとした。これでは地上の人間まで凍り付いてしまうではないか。  女王もセリエンもこんなことをなぜ許した。自国の民が巻き込まれていいわけがない。  しかし、地上を窺い見ようとした時、ヴァルディースはそこに強い違和感を感じた。人間は、この異常気象にも突如離宮を覆い尽くした氷の壁にも何の反応も見せてはいなかった。それどころか、ヴァルディース以外の火精たち、水精たちも、いつもと何ら変わらない生活を送っている。 「やっぱり説得なんて無理ね。ザフォルも来ないし、強行する」  下に気を取られているすきに、ユーアの蔦が周囲を覆い尽くした。強力な大地の魔力が這い回り、上空のフェイシスの冷気や離宮に張り付いた氷の壁と呼応する。無造作に広がっていくようでそれが魔法陣を描きだしていることにヴァルディースはハッとした。 「レイスを、どうするつもりだ……。レイスだけじゃない! ユイスもエミリアも、あんたらはおれの家族をどうするつもりだ!」  激情に駆られたメイスがフェイシスとユーアの前に飛んだ。大きく広げた両腕が翼に変わる。豊かな乳房をあらわにした女の上半身に、獣の胴体。翼を羽ばたかせ、空を蹴る。 「待て、メイス!」  ユーアが何かをしようとしている。今迂闊に手を出すのはまずい。しかしヴァルディースの制止は遅かった。  雷光がメイスを撃った。その直後にヴァルディース自身にも、膝を折るほどの圧力が襲った。  空中で意識を失ったメイスが地上に向けて真っ逆様に落ちていく。手を伸ばそうとしたところで届くはずもない。このままでは、地上に叩きつけられる。そう思った寸前、巻き起こった風がメイスの身を受け止めた。  メイスの風ではなかった。メイスはぐったりと風に身を預けたまま動かない。精霊でもない。それはユーアが描いた魔法陣から発せられていた。  同時に魔法陣は、ヴァルディースから全ての魔力を吸い上げるかのような勢いで吸収していた。さらにはヴァルディースだけでなく、魔法陣を作り上げたフェイシスやユーアにも襲いかかる。  ユーアの魔力で生み出されたはずの樹木はユーアから切り離され、自ら蠢き、氷の壁に壮大な魔術を刻み、完成させるためにヴァルディースたち四精の長の魔力を根こそぎ奪おうとしていた。 「冗談じゃ、ない……!」  巨大な魔力が壁の向こうに吸い込まれていく。女神を作ると言っていたのは本当だったのか。確かに四属の膨大な魔力を掛け合わせることができればもしかしたなら可能かもしれない。  だが、それを受け止めるのは誰だ。 「レイスと、ユイスを切り捨てるつもりか、ユーア……」  壁の向こうに存在していて、なおかつ精霊長の魔力に耐えうる存在といえばあの二人しかいない。  ユイスはおそらくフェイシスと従属の契約を交わしている。そしてヴァルディースの眷属となったレイス。  だが、その二人でもこんな全世界の魔力に匹敵するものを受け入れられるはずがないではないか。 「ユイスは平気。フェイシスの加護がある。でもレイスにはない。だから、協力して欲しかった。もし彼が魔力に取り込まれるならそれまで。闇に呑まれるよりはマシ。その程度だとしたら、最初から精霊長の眷属なんて務まらなかったってこと」 「ふざけるな!」  ヴァルディースがユーアを恫喝したところで、魔法陣は止まらない。しかし魔法陣がレイスとつながる道を作るなら、可能性がある。  身を引き裂かれるかと思うほどの圧力に、全身が悲鳴をあげた。 「レイス、どこだ、どこにいる!」  魔力の流れをたどる。濃い闇に押しつぶされ拮抗する魔力は捻れ、複雑に絡み合う。それでもその先に一点だけ、ヴァルディースは自分の慣れ親しんだ炎の気配を感じた。  手がようやく届くと思った。風の気配を同時に抱いたその存在に。  その時風が闇を取り込んで全てを巻き上げた。  ヴァルディースは堪えることもできずに吹き飛ばされた。ヴァルディースだけではなく、フェイシスもユーアも。  氷の壁もユーアの樹木も、炎も風も闇さえもうねり、巻き上がる竜巻となる。  その竜巻の中央で、全ての魔力を一身に引き受け、絶叫する女の姿を見た。赤い髪の、どこかで見たような女だった。

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