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5章 懐かしき光の大地 3

 女が絶叫を繰り返す。その度に拡散していこうとする魔力が収縮し、混ざりあう。 「魔力を引き戻そうとしても、戻ってこない」 「たかが人間があの力を制御してるってことか?」  本来の主人である自分たちの魔力に、人間が抗えるなどあり得ない。そんなことができるとすれば、もはや人と言えるのか。 「亀裂に吸い込まれていきますよっ」  女が魔力を抱き寄せたまま空間の亀裂に引き寄せられていく。あの向こうは異次元だ。ヴァルディースがレイスと一時身を寄せていたような、夢幻境界のどこか。  激しくぶつかり合う閃光が見えた。何かが闘っている。巨大な光と闇が、向こう側からもこちらに干渉してくる。  空気が強く振動した。 「まさかアレ、ガルグの長とセリエンじゃないでしょうね」  フェイシスの台詞にぞっとした。  しかしセリエンの気配がこの世界から消えていることを考えれば、フェイシスの発想はむしろ当然のものだ。空間に干渉するほどの力などそうそうあるものではない。ザフォルが囮になってヴァシルを隔離できたとするなら、それに対抗できうる存在は他にセリエンしかいない。 「もしここであの亀裂が破れたら、それこそ最悪の結果になりますよ」 「考えたくもないぞ、そいつは」  ただでさえわけのわからない女が暴走しかけていると言うのに、そこでヴァシルとセリエンが本気で衝突などしようものなら、魔力どころではなく世界の大半が消し飛ぶ。アルスの復活がなくとも、世界の破滅がやってきてしまうかもしれない。 「早く人間から魔力を取り返す」  言うと同時にユーアが飛んだ。ごちゃごちゃ考えている暇はなさそうだ。  ユーアが残りの魔力を振り絞っておびただしい数の樹木を広げ、大地を歪めて女に襲いかかる。フェイシスも援護に回るが、ユーアの樹木を押し上げる程度。巨大な質量の前ではさざ波にもならない。  ただ、女が意識を乱されたのか、魔力の火花が激しく散った。反発し合う水と炎が脈打ち湧き上がり、女から分離しようとする。  いけるか。  ヴァルディースはわずかに残った炎を吐き出し打ち放った。届きさえすれば、女から魔力の分離が加速するはずだった。  しかし、それは女のいる地点からはるか上空で炸裂した。何者かが火球を弾き飛ばしていた。  一瞬何が起きたのかわからなかった。  あたりを見回して、ヴァルディースは自分の目を疑った。氷の壁が、内側から闇に侵食されていた。ザフォルが夢幻境界とつなぎ、フェイシスとともに結界を張ったはずの空間が飲み込まれ、大きな口を開ける。 「おい、あの向こうは夢幻境界じゃなかったのか」  フェイシスが息を飲む。ユーアを見ても、基本は表情のない彼女が目を見開き、驚愕に震えていた。 「破壊者アルスの復活」  かろうじて絞り出されたユーアの声に、怖気が襲った。空間の境目を繋ぎ、ヴァルディースたちでも破れない結界を、いともたやすく破る。こんなことができるとすれば、可能性は一つしか考えられない。  捕らえたはずのアルスが、完全に目覚めた。  闇から何かが突出する。莫大な闇を纏った人の姿。恐怖がヴァルディースだけでなく皆に伝播する。  結界を隔てた地上の人間たちにもざわめきが広がった。  金色の髪を翻した影がニヤリと笑った。 「ああ、なるほど。あの女を使ったのだな、スイッタは」  少年の姿にしては異質すぎる嗄れた声。本来草原の緑だったはずの瞳が、血のように紅く染まっていた。  その姿を見た瞬間、恐怖は消し飛び、怒りがヴァルディースを支配した。 「ロゴス、貴様ああああ!!!!」  ヴァルディースは吠え猛った。ろくに動かない身体を奮い立たせようとした。  気配はない。感情も流れ込んでは来ない。だが間違いなくあれはレイスの身体だ。自分が眷属として、いや永世の伴侶として選んだ相手だ。それを今、闇の気配が包み、侵していた。レイスの意思に反して身体を乗っ取り、操っていた。 「レイスを返せ!!」  レイスは卑劣な闇の生き物が侵していい存在ではない。もう二度と苦しみ怯えさせていい存在ではない。  ヴァルディースの周囲に火花が炸裂した。  気温が上昇していく。フェイシスが張り巡らせた水も一瞬で蒸発していく。あたり一帯陽炎が揺らめくその中で、レイスの顔をしたロゴスは、しかし不敵に笑った。 「炎狼も、この程度とはな」  ヴァルディースは歯がみした。ロゴスになんの痛痒も与えられていない。当然だ。周囲に広がる現象はヴァルディースの感情に引きずられただけのもの。鋭い刃になるどころか、ほんの僅かな変化だけで消えてしまう。  それでもヴァルディースは、今すぐロゴスをぶちのめして、レイスの身体から引きずり出したかった。  もったいぶった足音が迫ってくる。 「ヴァルディース! 逃げなさいこの馬鹿犬!」   フェイシスが叫ぶ。逃げるなどできるはずもない。もう指先を動かすほんの僅かな力すら残っていない。  闇が牙を剥いた。ヴァルディースを一飲みにしようと大きく広がる。  ここで終わるのか。レイスを助け出すこともできず、虚しく闇に飲まれてしまうのか。目を閉じたその時だった。  渦巻く風音が身体を襲った。激しく爆ぜる炎が一瞬にして周囲を覆い尽くした。  女が絶叫する。その身体が引き裂かれ、おびただしい魔力が溢れ出す。世界に炎が拡散する。同時にヴァルディースにもみるみるうちに力が戻ってくるのがわかった。 「何をしているスイッタ! 人間の女一人制御できぬのか!」  炎に巻かれロゴスが離脱しようとした。その怒号に女の周囲を漂う闇が形を成し、現れる。 「申し訳、ございません、ロゴス様……。炎だけが、制御を、受け付けず」 「言い訳などはどうでもいい! なんとかするのだ!」  男の声が発せられた闇が、再び女の影に埋もれる。女が身体を引きつらせ痙攣した。あの女は、ガルグに操られていたのだ。スィッタと呼ばれたのはおそらくガルグの幹部だ。  ヴァルディースは悟った。あれはやはりレイスと同様の実験に利用された、ヴァルディースの契約者の末裔だ。  もう一度炎の魔力が女に集められようとした。ヴァルディースはとっさに引き寄せられるその力に抗った。魔力の奪い合い。激しく炎がぶつかり合う。  一度解き放たれた魔力だというのに、ヴァルディースが思うように制御することができない。  何という強靭な精神だ。ガルグの支配下とはいえ、人間の女が精霊長である自分と拮抗できるだなど。 『ワタ、シは……』  女の声が歪に震えた。 『わたシ、ハ!』  それは今までの絶叫とは違った。女の目に涙が弾けたのが見えた。  その瞬間、ヴァルディースは自分の魔力に弾き飛ばされていた。乱れ散る炎をフェイシスが慌てて水の網で受け止める。きりもみになって身を丸め、着地する間際にどうにかヴァルディースは散った炎をかき集めた。 「あの女、炎を拒絶した」  急に綱引きをしていた一方を手放されたようなものだった。  女の周囲に嵐が巻き起こり、火花が散る。逆にヴァルディースには持て余しそうなほどの魔力が満ちていく。  ロゴスの舌打ちが聞こえた。一旦引こうとするのが見えた。逃すわけにはいかなかった。  フェイシスの呆然とした視線が背中に突き刺さる。ユーアも動けない。他の奴らに力は戻っていないのだ。女から弾き出されたのは炎だけだ。だがこれだけの力があれば、ロゴス程度は捕まえられるかもしれない。 「ロゴス、貴様だけは許さん!!」  ヴァルディースは飛び退ろうとするロゴスに追いすがった。炎を巻き上げ、退路を塞ぐ。闇がその炎を押し退け喰らおうとするように覆いかぶさった。  激しい攻防が始まった。押し包もうとするヴァルディースに対し、食い裂き、逃れようとするロゴス。溢れる炎があたりを灼熱で覆い尽くすも、ロゴスの闇はどこからそれほどの力を得ているのかと思うほどに濃く、容易にヴァルディースに捕らえさせない。  炎と闇の力比べ。もともとロゴスもガルグの幹部である。簡単にはいかない。  しかし、闇とはいえ眷属でしかないロゴスに、長と呼ばれるヴァルディースが負けるわけにはいかなかった。 「圧しきる!」  闇を焼き尽くす。かき集めた熱量を叩きつける。  しかしその瞬間、ヴァルディースの脳髄を殴り飛ばすような意識がぶつけられた。 ——ヴァル、ディース……!  ヴァルディースの目の前でロゴスの赤い瞳が、虚ろな深緑に揺らいだ。

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