51 / 57

5章 懐かしき光の大地 4

 目の前が炎で包まれた。次々と襲い来る劫火が身を焼き尽くす。激しい痛みにレイスは絶叫した。  何度も覚えのある熱だった。身の内から身体を焼き滅ぼそうと暴れまわる、ガルグの実験で気が狂うほどに繰り返されたそれと同じ。  何が起きているのかわからなかった。燃え盛る毛並みを持った狼が、レイスをからめとろうとしていた。牙を剥き、執拗に追い回し、炎で逃げ道を塞いでくる。  強い憎しみを伴った眼差し。震えが走った。なぜ、と思った。今にもその牙でこの身を食い千切ろうとする勢いに、ただただ慄くしかできない。  レイスはその狼を知っていた。けれど以前見たときは諦めるなと、レイスに言ったはず。  頰を何かが伝い、こぼれ落ちる。あのとき狼の言葉が嬉しかったのは、それが間違いなく信頼と好意からくるものだったからだと、今なら思う。目の前の狼からは今、敵意しか感じられない。  ひどく悲しかった。裏切られたのか。それともまた、自分の方が裏切ってしまったのか。  狼の攻撃はじわじわとレイスを追い詰める。しかし決定打を与えるに至ってはいない。おかしいとレイスは思った。レイスは逃げようとなど思っていないどころか、早く殺されてしまいたいとすら思っているのだ。  身体が勝手に動いていた。狼の攻撃をかわし、炎を食い破る。いかにレイスの身体能力が高く、数々の実験によって人間からかけ離れた存在になろうとも、所詮は人の身。人間離れした動きなどできるわけもない。 『ああ、またオレはガルグの傀儡になってるのか』  つぶやいた言葉は、音として発声されることはなかった。  自分は闇に侵されているのだ。意識はある。けれど何一つ自分の意思で動くことなどできなかった。母を、ユイスを殺した時と同じだ。  胸が締め付けられる。早く終わって欲しかった。救いがあるとすれば狼の強大な攻撃力だ。もしかしたら今度こそ殺してもらえるかもしれない。期待と不安が入り混じる。  食い入るように狼を見つめる。レイスを狙い澄ます狼と目が合う。その時どきりと胸が高鳴った。 『ヴァルディース……』  自然とその名が浮かんだ。誰かに教えてもらったのだろうか。でも誰に? 思い出せない。  信じろと言われたような気がする。諦めるなと言っていたのは狼だった。信じろと言ったのも狼だっただろうか。  レイスは自嘲した。信じたところでもう全て手遅れじゃないか。向こうはレイスのことを敵だとしか思っていない。 『早く、終われ』  涙が止まらない。憎しみのこもった眼差しなんて見ていたくないのに、目を閉じることができない。  早く早くと狼の一挙一動をひたすら追いかけ、祈る。 『早くオレを殺して、何もない闇に堕としてくれ。全部思い出さなくて済むように』  闇がその時視界に広がった。炎を押しのけ、逆に喰らおうとヴァルディースに襲いかかる。ゾッと悪寒が走った。  闇に囚われれば抜け出すことはできない。もう二度と誰にも会うことはできない。そう、誰かに教えられた。 『オレと一緒に生きるしかできない、って』  そう言っていた男がいた気がする。炎色の髪の男に抱きしめられていた記憶が脳裏をよぎる。誰かとずっと共に生きること。そんなことは夢や幻だ。  なのに涙が溢れて止まらないのはなぜだ。  自分はあの狼を、ヴァルディースを信じたかった。今度こそ自分の側にいてくれる存在であると、信じたかった。  闇は炎に押し返され、ヴァルディースには届かない。だがもう一度あれを仕掛けられたら? 不意をつかれてしまったら?  あの狼はどうなる。もう二度と会えない。  そう思った途端、思考は真っ白になった。  憎まれていてもいい。嫌われていてもいい。そばにいてくれなくても、ずっと独りになったとしても。それでも、もう一度会いたい。そう思うのは何故だ。  視界がぶれる。記憶が脳裏を錯綜する。  何度も、何度も刃を突き刺し、殺した。しかしいくら殺されても傷つけられてもその男はレイスの前に現れた。恐怖に怯えて自分自身を殺しても、男は止めようとした。闇に飲まれそうになったレイスを、抱きしめ、引き戻した。  忘れさせると言った。未来永劫、共に生きる、と。守ると。  狼の姿で懐に抱いてくれたその温もりが心地よかった。もう味わうこともないと諦めていた優しさだった。強制的に刷り込まれた本能だったのかもしれない。けれど、それでもヴァルディースだけがレイスにとって、縋ることのできる唯一の存在だった。 『ヴァル、ディース……』  レイスはもう一度その名を呼んでいた。気づいて欲しかった。自分がここにいると。 『ヴァルディース!』  強く叫んだ。その時ヴァルディースとはっきり目があった。一瞬、ヴァルディースが笑ったように見えた。レイスは歓喜に震えた。気づいてくれたと思った。  だが次の瞬間、レイスの内からおぞましい闇が溢れ出した。  背筋が凍るほどの悪意がレイスの背後にひしめいた。その隙を狙っていたかのような凶悪な笑い声が響いた。巨大な闇がヴァルディースごと世界を飲み込んだ。 『ヴァル、ディース、ヴァルディース!』  ヴァルディースの姿はもうどこにも見当たらなかった。  どれほど叫んでもレイスの声は幾重にも反響する笑い声にかき消される。何もない闇だけがまたレイスを覆い、押しつぶす。  もがき足掻こうとしても押し寄せる闇は容易にレイスをも飲み込んだ。  ヴァルディース。闇に全て閉ざされてしまうその直前、もう一度レイスは叫んだ。

ともだちにシェアしよう!