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5章 懐かしき光の大地 5
ロゴスは笑った。
水精の長が目を見開き絶叫した。地精の長も呆然として動きを止める。ようやく目を覚ました風精の新たな長が愕然とロゴスを見つめていた。
腹をさすり、ごくりと喉をならす。普段は決してしないような品のない行動すら、身の内で暴れまわろうとする炎狼の美味さの前では、たいしたことではないように思えた。
一瞬だけ、ロゴスは炎狼の眷属の意識を解き放ったのだ。炎狼はまんまとその叫びに動揺した。
「炎がこれほどまでに美味だとはな」
言葉を発し、笑みを露わにするほど、フェイシスとメイスの表情は強張り、憎悪に震える。それもまたロゴスにとっては楽しい反応だった。
「スィッタ。炎が除かれたなら、女の制御もしやすかろう」
激しく魔力を放出し続けていた女が、莫大な魔力をその身に定着させ、虚ろな眼差しで浮遊している。その背後の影から再びスィッタが姿を現した。
「はい。全属性を揃えられなかったのは残念ですが、もともと炎の魔術師。時空を開くには支障はないかと思われます」
「ヴァシル・ガルグと合流するつもりですか!?」
喚くフェイシスにほくそ笑む。覚醒したアルスを擁し、長ヴァシルと合流できればこんな状況たわいもない。
スィッタが操る女は、炎狼の契約者の子孫として膨大な魔力を秘めていた子供を、長ヴァシルが実験材料として購入したのだ。
本来なら炎狼の器となるのはあの女の筈だったが、なぜか炎狼を拒絶したため実験は風精の子孫を使うことになった。その時点で女は処分されるはずだった。しかしヴァシルはこれを温存していたらしい。
その詳細については、ロゴスは直接実験に携わっていないため、わからない。とはいえ都合よく動かせる手駒になったという事実さえあれば十分だ。
精霊が抱えていた膨大な四属性の魔力を操るということは、もはやザフォルにも勝るかもしれない。人間風情によってそれが成されたと考えると、思うところがないわけではないが、今はそれについては置いておくべきだろう。再び眠りについてしまったアルスの手を煩わせずとも、時空を超えることができるのであるから。
「さあ女、我らが長の下まで道を開いてもらおうか」
女が弾かれたように顔を上げる。どうやら未だ意識はあるらしい。スィッタもよくわかっている。意識のない操り人形など味気なく、つまらない。人間は恐怖と屈辱で支配してこそだ。
女が言葉にならない悲鳴をあげ、魔力を紡ぎ始めた。
「そんなことさせるわけに行くものですか!」
青ざめたフェイシスが水の魔力を練り上げる。しかし先ほど魔力を女に奪われたままで、何ができるものか。
「往生際が悪いな、海龍」
ロゴスは飛んだ。女が道を開くまでフェイシスとユーアで遊んでやるのも悪くない。
闇を纏わせ巨体を蹴りつける。練り上げた魔力を支え、反応が鈍っていたフェイシスは避けることもできず、長大な身体を大きくうねらせ、津波のように飛沫をあげて海に倒れこんだ。
その波は女王の大地をも飲み込むほどだった。実際そうなってくれたならロゴスの気分は一層晴れやかだっただろう。だが地上に張り巡らされた結界が大波を阻み、城下には一切被害が及ばない。
ロゴスは歯噛みした。
この強度はセリエンだけではなくザフォルの知恵も混ざっているのかもしれない。忌々しい。目と鼻の先にありながら、水晶の城に傷一つつけることができないとは。
闇に絡め取られたフェイシスが海の中でもがき暴れ回るのを、ロゴスは睨め付けた。足掻きは次第に弱まっていく。本当に最後の力も残っていなかったらしい。
静まり返った海面を見下し、ロゴスはユーアに向き直った。
このままユーアも蹴散らしてやろうと思ったが、ロゴスは動きを止めざるを得なかった。ロゴスが纏う人間の身体は予想以上に脆く、先ほどの一撃で脚が半分崩壊している。修復はできるが、これでは手間がかかる。
「世界樹よ、お前はどうする。まだ我らに刃向かうか?」
ユーアは空中に樹木を広げたまま動かない。静かな敵意だけは向けられているが、フェイシスと状態は大差ない筈だ。人間の器を修復せずとも対処できる。
アルスを取り戻した今、虫ケラ同然の人間の器など用済みではある。さっさと捨ててしまっても良いのだが。
「今すぐ、その身体を返せ、ガルグのくそったれ!!」
その時風が帯となってロゴスの身体を締め上げた。息の上がった男が貧弱な風の魔力を練り上げていた。貧弱すぎて今の今まで思考の外に追いやっていた風の精霊長、メイスである。
「レイ! レイス、返事をしろ!」
メイスが繰り返し炎狼の器の名を呼ぶ。そういえば、この器は風の精霊長の血を受け継いでいたのだったか。なるほど、これが人間のいう親子というものか。
「おれがこんなこと言う資格はないかもしれない。けど母さんはお前をずっと心配してた。魂が消える瞬間までな。誰もお前のことを恨んじゃいないんだ。だからもういい。帰ってきていいんだ。戻ってきてくれ、レイ!」
情に訴えて取り込んだ意識を呼び覚まそうとでもいうのだろうか。ロゴスは笑った。必死さが滑稽で仕方ない。一度闇に囚われた、それも人間ごときがそんな手段でどうにかできるわけがない。
「残念だがそんな言葉、お前の息子とやらの心には何も響かないようだぞ」
ぎりりと歯噛みする音がロゴスの耳元にも聞こえてくるほどだった。そう、これだ。たかが人間風情、いつでも捨て去ることはできた。が、この人間に対する精霊どもの執着、それに伴ってロゴスへ向けられる憎悪。それが格別に美味なのだ。
ロゴスは捕らえようとする風を振りほどいた。腕の一振りであっけなく霧散する。もはやなんの力もない男とこれ以上戯れてやる必要もない。
それでもメイスは身一つでくらいついてきた。さすがに鬱陶しさしか感じなかった。容赦なくロゴスはその身体を闇で打ち付けた。殴られ蹴られるたびにメイスの身に闇が侵食していく。しかしメイスはロゴスを無意味だというのにしがみ付いて離そうとしない。
「見苦しいな小童!」
「うるさい、レイを、返せ……!」
先程炎狼ヴァルディースを飲み込んだばかりの腹は満腹を訴えている。いかに弱っているとはいえ曲がりなりにも精霊長。これ以上はロゴスにも余る。
「ならば滅ぶがいい」
ロゴスは最大の闇で炎狼の器ごとメイスを押しつぶそうとした。
炎狼の器、メイス双方の絶叫が重なり合い、迸った。
「メイス、そのまま離すなよ。返してもらうぜ、全部!」
その瞬間、ロゴスは何が起きたのか理解が間に合わなかった。
よく見知った声が背後に響いたと思った瞬間、視界一杯に光が広がった。闇に生きるガルグにとって、それは最大最悪の、絶望だった。
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