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5章 懐かしき光の大地 6

 起きてくれ、と誰かに揺さぶられていた。しかし、頭がガンガンと割れるほど痛み、胸が押しつぶされるほど苦しい。息を吸うごとに入り込んでくる空気は吐き気を催し、到底起き上がろうだなんて思えない。腕も足も、鉄の塊でもぶら下げられているのではないかと思うほどに重い。  それでも繰り返し耳元でヴァルディースの名を呼ぶ、嗚咽混じりの声が途切れることはなかった。もうやめてくれと呟いた気がしたが、耳に聞こえた自分の声は呂律が回らず不明瞭だった。  誰か男の声が聞こえたあと、もう一人女の声が重なった気がした。その声に、ヴァルディースはハッとした。胸に入ってくる空気がその瞬間、身にまとわりつくような瘴気から、さわやかな風に変わった。同時に腕や脚の重さがかき消えた。  ヴァルディースは目を見開いた。金色の髪に緑の瞳が目に飛び込んできた。 「レイス!」  思わずヴァルディースは飛び起き、その体にしがみついていた。  うわっ、と腕の中で悲鳴が上がる。両腕をばたつかせて、少年はヴァルディースの腕から逃れようともがいた。その感覚に、はたと、ヴァルディースは我に返った。彼はレイスとよく似ていたが、心なしか華奢で、そして決定的にレイスとは違った。心の声が聞こえてこない。 「ヴァルディース、さんっ、僕です、ユイスですっ!」  どうにか腕の中から這い出したユイスが、大きく肩で息をして、顔を真っ赤にして訴える。その姿に、慌ててヴァルディースは腕を離した。 「すまない、ユイスだったのか。なら、ここは」  あたりは何も見えない闇だった。ヴァルディースはすぐさま状況を思い出した。そうだ、自分はロゴスの闇に喰われたのだ。ロゴスが一瞬だけ解放したレイスの意識に惑わされた。  ここはその闇の中なのだろう。でも、だとしたらなぜ自分はこうして意識を保っていられるのか。それに先ほど感じた風と声は。  闇の中にもう一度風がそよぐ。ヴァルディースを蝕んだ闇を晴らしたのはこの風だ。姿は見えない。けれどヴァルディースにははっきりとわかった。そこに、彼女がいる。闇と限りなく同化してしまっているが、その気配をもう二度と間違えたりしない。  そしてもう一つ、ヴァルディースが求めてやまない気配をはっきりと感じた。 「ヴァルディースさん、レイが、起きてくれないんです」  いくら手を伸ばしても届かない。いくら呼んでもレイスが反応することはない。そう、ユイスがヴァルディースに泣きじゃくってしがみついた。 「僕じゃ、やっぱりダメなんだ」  散々泣きはらしたのだろう、真っ赤に腫れた瞼が痛ましかった。  奥に、闇の中で背を丸めて目を閉じる、ぼんやりとしたレイスの姿が見えた。すぐ目の前にいるように思えるのに、気配は果てしなく遠い。世界の果てにでもいるのではないかと思うほど。手を伸ばしても、やはりヴァルディースにも届かない。  今すぐ抱きしめたかった。求めても届かない隔たりがひどく苦しい。  それでも同じ空間にいる。今までヴァルディースにはレイスの気配がまるで感じられなかった。それに比べればどれほどマシな状況か。  ヴァルディースは空を掻くだけの手のひらを握りしめて、ユイスの肩に手を置いた。 「大丈夫だ、ユイス。レイスがそこにいるのは間違いない。あいつが起きたいと思うようにすればいい」  どうやって、と問い返されても、明確な答えは言えない。正直、ヴァルディースにも自信はなかった。  ただ、真っ直ぐにレイスを見つめる。闇の中に感じる風の気配に、ヴァルディースは目を伏せ、心の中で礼を告げた。  もう二度と相見えることはないと思っていた。レイスをこの闇の中で守っていてくれたのはきっと彼女だろう。会いたいと思うが、姿を見せてくれないということはヴァルディースと会うことはできないのかもしれない。  それとも彼女は実際にはこの闇の中にすら存在せず、ザフォルが大半を奪ったという魔力の名残だけが、ここに閉じ込められているのだろうか。ヴァルディースにはわからない。  ひとつだけはっきりしているのは、レイスを彼女、ファラムーアと同じにするわけにはいかない、ということだ。 「ロゴスがレイスの意識を一瞬だけ解放した時、あいつは確かに俺を呼んだんだ」  それが、ヴァルディースにとっての、唯一の希望だった。 「やっと呼んでくれた」  どれほど嬉しかったか。どれほど安堵したか。お陰でロゴスの罠にまんまとはまってしまった。レイスを助けようとしても、もう二度とあいつは応えてくれないのではないかと、ずっと不安だった。  レイスが起きたら、恨み言の一つ言ってもバチは当たらないだろう。きっと、苛立ち、不機嫌な顔で睨みつけてくれるはずだ。その瞬間がひどく待ち遠しかった。  不思議そうに見上げてくるユイスの頭を撫で、闇を見渡す。 「さて、一つ始める前に状況を教えてもらおうか。そこにいるのはお前だろう、グライル」  ヴァルディースは闇に向かって語りかけた。気配がうごめいたのがわかった。姿はやはり見えない。ファラムーアと同じで闇に限りなく溶け込んでしまっている。だがこの空間自体を持たせているのはファラムーアではなく、その気配の方だ。 「そうだ」  呼びかけに、声だけが返ってきた。 「お前は一体なんだ。お前の正体のついてはレイスの中にも記憶はない」  グライルの気配は、メルディエルにいる間、ずっと人間以外の何物でもなかった。だというのに今闇の中に飲まれることなく制御している。  いや、飲まれていないわけではないのかもしれない。ギリギリ持たせている程度だ。それでも闇に抗う力を持っている。ただの人間ではあり得ない。 「俺は、ガルグの実験材料だった。レイスが、お前と合成させられたように、俺はガルグの幹部、スィッタの闇を植え付けられた」  だから人間であるにもかかわらず、闇を扱うことができるのだというグライルの答えは、ヴァルディースの予想を大きく外してはいなかった。グライルのガルグでの地位を考えてみても、違和感はない。 「おまえはザフォルの計画を全て知った上で協力したのか?」  今度は返答はなかった。沈黙は肯定ということかもしれない。グライルがもとより余計なことを語ろうとしない男だ、ということはレイスの記憶で知っている。グライルに抱く苛立ちや怒りから、言いたいことや問い詰めたいことは山ほどあったが、この状況を打開するまで、まだ置いておくしかないだろう。  今回の計画で、要となるのは四属性の魔力を受けるユイスとレイスだった。ユイスにはユーアの加護もあったはず。二人が欠けたら成り立たなくなる。  アルスを確保するためにセリエンを夢幻境界に送り込んだことで、ロゴスを取り逃がす可能性は、ザフォルの想定内だっただろう。その際に人間でしかないユイスやレイスを奪われ、利用されることも。その場合に備えて、ザフォルはメイスにも伝えていなかった計画の全てを、グライルには打ち明けていたはずだ。闇に抗えるのはグライルしかいない。  グライルは、アルス奪還に動いたロゴスを待ち伏せ、その闇に潜伏した。四属性の魔力が届くまで、闇からユイスやレイスを守る防壁となるために。  これはヴァルディースの予想でしかないが、きっと大きく間違えてはいないだろう。  そしてグライルの役割がそうであるなら確かめなければいけないことがいくつかある。 「この空間はあとどれくらい持たせられる?」 「それほど余裕はない。だが、レイが起きるまでは持たせてみせる」  余裕はないと言いながら、断言するグライルが癇に障った。それほどこの男のレイスに対する気持ちは強いらしい。  本音を言えばこんな相手に頼りたくなどない。しかし、闇ばかりはグライルに頼むしかない。 「この闇から脱出する手は?」 「光の剣が届いた瞬間にフェイシスとユイスを繋ぐ。それしかない。そのためにはレイスを起こさなければならない」  光の剣というのはセリエンの剣のことだ。夢幻境界に追いやったヴァシルをセリエンとザフォルでカタをつけ、戻ってくる手筈だったということなのだろう。しかし、外ではあの女が暴走し、ヴァシルのいる時空に繋ごうとしていた。フェイシスとユーアだけで、はたして持ちこたえさせることができるのだろうか。そもそも本当にザフォルとセリエンでヴァシルを片付けられるのか。 「猶予も確証もない、博打みたいな計画だな」 「ステイが、ヴァシル救出のためにスイッタへ協力をしなければ、もう少しマシだったはずだ」 「ステイ?」 「エスティレードという、おまえの契約者の末裔だ」  暴走していたあの女の名だと、ヴァルディースは気がついた。  レイスの記憶にあの女の姿はなかったが、グライルはよく知っている様子だ。詳しく聞いてみたいところだったが、おそらくまた答えないだろう。  大方、ヴァルディースの縁者としてレイス同様、ガルグの実験で弄ばれたのだと思う。ここから出ることができたら彼女のこともどうにか考えなければいけないかもしれない。  しかし今はそのことに時間を割いている場合ではなかった。 「とにかくさっさとレイスを起こす」  ヴァルディースは沈黙するレイスに向き直った。

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