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5章 懐かしき光の大地 7
未だレイスの反応はない。静かに闇の中で揺蕩っている。気配も遠いままだ。表情は見えない。けれどヴァルディースにはどこか、泣いているようにすら見えた。
「やっと会えたな」
ヴァルディースは語りかけた。
「相変わらずお前は俺に近づこうとしない」
砂漠の夢幻境界で共に過ごして以来、レイスはいつもそうだ。なかなか近づいてこようとしない。身を縮めて拒絶する。こちらが近づこうとしても、むしろ離れていく。何度それで苛立たされただろう。今もまた同じ繰り返しだ。
「おまえはやっぱりまだ、俺を受け入れてくれてはいないのか?」
ヴァルディースへの思慕を、強制的に刷り込まれた偽物の感情だと認識していたレイスを、無理矢理魅了したくはなかった。レイス自身の意思で、認めて欲しかった。
ほんの少しだけ心を許してくれるようになったと思ったが、魔気嵐のせいでこちらから手放したような格好になったまま、ロゴスに奪われた。
ずっと不安だった。打がレイスはヴァルディースを呼んでくれた。レイスが求めてくれるなら、ヴァルディースは何を置いてもそれに応えなければいけない。精霊の本能とかそんなものは関係なく、ヴァルディースがそうしたいのだ。
「レイス」
ただ名前を呼ぶ。レイスの意識に語りかける。『俺はここにいるぞ』と、伝える。レイスが、この闇の中で自分の姿を探し求めていてくれることに望みをかける。
ヴァルディースは、レイスが誰よりも温もりを欲していることを知っている。共に生きることができる、失うことのない安らぎを求めている。そしてそれは、自分しか与えてやれないものだという確信もある。他の誰にも譲る気などない。ユイスやメイスにも、もちろんグライルにも。
悠長に待っている時間はない。だからこれは賭けだ。
「俺と一緒に生きろ、レイ」
絶対にもう、手放さない。
ヴァルディースは耳をすませた。レイスが応えてくれるなら、呼んでくれるなら、決して聞き逃したりなどしない。
闇の中に溺れる。もがいてももがいても息苦しさは消えない。むしろますます深みにはまって押しつぶされていく。
苦しい。苦しくて仕方ない。押し寄せ、身体に無理やり入り込んでこようとする闇が気持ち悪い。
もう嫌だと叫ぶ。苦しいのは嫌だ。つらいのも嫌だ。寂しいのも悲しいのも、恐ろしいのももう嫌なんだ。早く終わらせてくれ。早く存在ごと消してくれ。助からなくていい。助かる価値なんて何もない。何もかも失った。どこへいくことも何をすることもできない。
もうすがるものなんて何もない。あの狼ですら、この手で、汚れきったこの手で消してしまったではないか。
レイスは叫んだ。もがきながら泣き叫んだ。波のような闇が押し寄せ、飲み込もうとする。
その波は多くの人間の怨念。恨み、憎しみの負の感情。受け止めることなどできず、むせ返る。
消えようなど、楽になろうなど許すものかと怨念が叫んだ。逃すものか。お前も同じ苦しみの中に未来永劫閉じ込められろと引き摺り下ろされる。
足掻く力も奪われる。疲れ、足も腕の動作も緩慢になって、沈んでいく。
心が凍る。何も感じなくなっていく。ただ、寒さだけが残る。それでもレイスはまだ、足掻いた。
落ち着いて、と何かが言った。呼んで、と。
一体なんだ。何が落ち着いて、だ。こんな状況で何を呼べるわけもないではないか。あたりは怨念渦巻く闇しかないのに。
もう一度、落ち着いて、と願う声が聞こえる。そんなことを言われてもどうしろと言うのだ。より深く、濃い闇に引きずり込まれていく。それに抗うだけで精一杯。
——大丈夫あなたは足掻けているから。
だからなんだというんだ。当たり前だ。こんな苦しくてつらい状況、逃げたいに決まっている。
——そうね。当たり前。あなたは生きたいと思っているもの。
生きたいと思っている。そう言われて、レイスは思わず動きを止めていた。生きたい。何を言っているんだ、と声の主の言葉を反芻し、する。
——ヴァルディースもそれをわかってる。だから、あの子は絶対諦めたりしない。
ヴァルディース。それは闇に呑まれてしまったあの炎の狼の名だ。
跡形もなく消え去っているはずだ。なのに、なぜこの声の主は諦めていないなどと言えるのだろう。
足元を示された。いつのまにか怨念が遠ざかっている。さっきまで抗っていたはずの苦しさもない。諦めず抗ったから、だとでも言いたいのだろうか。自分が、生きたいと思っているから?
あの狼も、だから諦めていない?
まるで怯えるように、怨念は近づいてこない。
——呼んであげて。
もう一度、声は言った。
お前の思考や記憶が流れ込んでくる、と誰かが言っていた。
どこまで遠く離れてもお互いを求めあってしまう。未来永劫共に生きるしかない。そう言っていたのも、同じ相手だっただろうか。
「ヴァル、ディース……」
闇に消えたはずの狼が、脳裏に浮かんだ。それと同時だった。
レイス。そう、誰かが自分を呼ぶ声がはっきり聞こえた。自分が呼んだヴァルディースの名に応じるように。
渦巻く怨念が一斉に晴れていく。その向こうに狼と同じ焔色の髪をした男が見えた。
「ヴァルディース……。あんた、が」
顔を合わせてその名を呼んで、途端に記憶が蘇る。砂漠の中で出会った最初から最後まで。ユイスを殺した後悔に囚われて何度も自分を傷つけたその時から、側にいてくれた。
目が合った相手が一瞬、驚いて、そして安堵したように笑った。
手を、差し伸べられた。
「俺と一緒に生きろ、レイ」
レイスは怯え、身を竦ませた。思考を書き換えられたんだと怒りもした。わけのわからない衝動に恐怖もした。しかしはっきりと胸に衝動がこみ上げる。獣の姿をした相手の懐で、温もりに包まれて眠った。とても、温かかった。あの温もりが忘れられるわけもない。
「でも、オレは、あんたのことも、この手で」
消そうとした。ロゴスに乗っ取られていたとはいえ、この身で彼を消し去ろうとした。それは決して許されるべきことではない。自分にはその手を取る資格などない。
「お前には、出会って最初に殺された。忘れたのか。お前が言ったんだぞ。『オレと一緒に死ね』って。今更だ」
ヴァルディースはそんなレイスの怯えを、鼻で笑い飛ばす。レイスはきょとんとした。そんなこと、言ったのだろうか。覚えてない。でも、ユイスを失った直後の自分だったら、ありそうな気がする。
「オレは、あんたのこと、何も、知らない」
「これからいくらでも教えてやる。むしろ、俺ばかりお前のことを知ってちゃ不公平だ。知ってほしいと思ってる」
なんでそんな風に誘惑してくるのだろう。心がはやる。今にもその言葉を言ってしまいそうだった。でもそれを自分が言っても許されるのか。願ってもいいのか。
「オレは……っ」
「レイの馬鹿!」
その声にハッとした。ヴァルディースの背後に垣間見えた存在に、レイスは目を疑った。
「このわからずや! 僕たちがどれだけ心配してると思ってるの! 早く帰ってきてよ。みんな待ってるんだから!」
泣き出しそうな、いや、もう散々泣き腫らした顔のユイスだった。生きているのか。ユイスが。そんなわけはないはずなのに。でも、間違えようのないユイスだ。
許してくれるのだろうか。
視界が霞む。涙が溢れ、頰を一筋流れ落ちていく。
「オレはあんたの側にいても、いいのか? そこに、みんなのところに、居ても」
そんなことが許されるのか。
「お前が望むならいくらでも」
望んでもいいのだろうか。自分がそこにいても構わないのだろうか。もう二度と、大切なものを、自分の手で壊さずに済むのだろうか。
「それでも怖いって言うなら、いくらでも傷つけろ。それくらい受け止めてやる」
どうしてこの男は、自分の欲しい言葉がわかるのだろう。いや、当たり前か。自分の思考が全部筒抜けなら。
「オレはもう、自分の手で誰かを失うのも、誰かに置き去りにされるのもイヤだ」
「だったらなんの問題がある。お前がどれだけ俺を殺そうが、お前ごときじゃ俺に傷なんかつけられない。俺は絶対にお前から失われたりしない。お前を置いて消えることもない。俺以上にお前にそれを確約できる存在が、この世のどこにいる」
言葉が詰まった。衝動がレイスを揺さぶり、突き動かそうとしていた。嬉しかった。今まで求めてやまなかった存在が目の前にいて、しかもレイスを受け入れてくれるという。これ以上何を望むと言うのだろう。
「オレ、あんたと、一緒に居たい」
強く腕を引かれた。温かく力強い腕の中に、レイスは飛び込んでいた。
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