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5章 懐かしき光の大地 8

 ぱきりとその時レイスの中で何かが壊れる音がした。  自分ではまるで気づかないまま必死に何かをおしとどめようとし、それでも溢れ出る思いを止められるわけもなくさらけ出した。 「オレ、あんたと、一緒に居たい」  絞り出された掠れ声。ヴァルディースは強く腕を引いた。レイスを侵していた闇の束縛が断ち切られ、ほどけていく。すがりつくように腕の中に飛び込んできたレイスを、きつくきつく抱きしめ、深く口づけた。ヴァルディースの炎が髪の一房から足の先まで、レイスの全身を再び満たしていく。  熱い吐息が溢れ、震えるレイスの指先が、ヴァルディースを求めて爪を立てた。  急激に送り込まれた魔力に魅了されたレイスが、全身を火照らせて蕩けそうな眼差しでヴァルディースを見つめる。  牙を立てないように首筋に噛み付くと、背筋をしならせてレイスが震えた。  腕の中でぐったりと身を投げ出す様は、どれだけロゴスの闇で侵されていたのか。今すぐここで全て浄化するように、レイスの身を解き放ち、ヴァルディースで満たしてしまいたかった。  けれどそんな余裕はどこにもない。  闇を引き裂くように、強い光が割り込んだ。 「ユイス、フェイシスを!」  グライルが叫ぶ。腕の中のレイスがその声にはっとした。  顔を真っ赤にしたユイスが、慌ててフェイシスの名を叫ぶ。  引き裂かれた空間に、光に続いて滝のように水が流れ込んだ。水は声に導かれるままユイスを引き寄せ闇の中から掬い上げる。ヴァルディースはレイスを強く抱きかかえたまま、引きずり出されていくユイスにしがみついた。 「グライル、お前も!」  来い、と手を差し伸べようとした。しかし光に照らされた闇の向こうで見た姿に、ヴァルディースは呆然とした。伸ばした手は何も掴むことができなかった。グライルはもはやほとんど闇と同化して、老人のように嗄れていたのだ。 「あんた、なのか」  レイスが抗うように、ヴァルディースの腕の中から身を乗り出した。ヴァルディースは再び闇の中に落ちそうになるレイスを咄嗟に引き戻す。レイスの手はグライルに届くことなく、水の勢いに乗ってどんどん引き離されていく。 「待ってくれ、いやだ。なんであんたが!」  光に覆い尽くされ、存在が掠れていく中で、グライルが微笑んだような気がした。  あれではもう助からないだろうということは、誰の目にも明らかだった。抗ってしまえば取り残される。行け、と、微かにグライルの声が聞こえた気がした。  レイスが絶叫した。同時に光の裂け目に向かって、ヴァルディースは飛んだ。  闇が弾けた。燦々と降り注ぐ太陽の光に目が眩んだ。  眼下で光の剣に刺し貫かれたロゴスが灰となって散っていく。闇がメルディエルの大地から晴れていく。  闇から抜け出す間際に、レイスがグライルの名を叫んでいた。果たして本人に届いたかどうかはわからない。  レイスが起きるまで持たせてみせると言ったあの男の言葉には、何の偽りもなかった。グライルはこうなることも全て承知の上で、ザフォルのあんな無謀な話に乗ったのだ。  グライルを罵りたかった。あんな最期を見せつけられたら、勝ち逃げのようなものではないか。 「馬鹿野郎が」  ひどく悔しかった。  腕の中ではレイスが顔を覆い、声を押し殺して震えている。レイスの悲痛な心が、ヴァルディースにも流れこんでくる。  こんな時、どう接してやればいいのか、ヴァルディースにはわからない。闇に取り込まれるということは、人間の言う死とは違う。けれど、レイスにとってはきっと同じようなもののはずだ。  頰を寄せ、頭を撫で、そっと口付ける。その程度で、レイスがグライルを再び失った悲しみを埋めることができるとは思えない。  それでも、すがりついてきたレイスをもう一度強く、ヴァルディースは抱きしめた。 「全部、俺様のせいにしときなよ」  不意に上から声が聞こえた。見上げた太陽の陰に白い姿が見えた。 「炎狼さんよ、騙しちまってすまなかったな」  ふざけた口調に怒りが呼び起こされる。ヴァルディースがそんな感情を抱く相手は、今一人しかいない。 「馬鹿を言うな。許されると思ってるのか、ザフォル・ジェータ!」  ザフォルにはグライル以上に問い詰めなければいけないことが山のようにあった。散々振り回しておいて、グライルまで犠牲にしてこんな結末にたどり着かせて、すまなかったの一言だけで済むわけがない。  しかし叫んだ途端にヴァルディースは息を飲んだ。  世界中の魔力がそこに収束していた。放出される魔力と、それを押し込めようとする魔力が激しく拮抗し、空間を歪めるほど火花を散らす。ザフォルの結界がステイと言ったあの女と、ほとんど同化したスイッタを束縛していた。そしてその結界を支えるザフォルは、半身を失っていた。  ヴァシルとの戦いの壮絶さをありありと映したザフォルの姿に、ヴァルディースは血の気が引いた。 「ほんと、悪いね。俺様も到底許してもらえるとは思ってないんだけど。でも、今はそれくらいしか言えなくって」  そう言いながら、ザフォルらしからぬ荒い呼吸を繰り返し、結界を破ろうとする女と対峙する。手負いとはいえザフォルの力をもってしても、女の力は内側から結界にひびを入れるほど。  周りを見回してもフェイシスもユーアも、メイスまでももう動ける状態ではない。  まだレイスを放り出すわけにもいかない。もしレイスを手放すことができたとしても、ザフォルを救援するなど、今の自分に考えられるのか。 「ああ、いいよいいよ。俺様だけでなんとかするから。ただ、女王陛下に伝えてくれるかい?」 「何を、言ってる」  ザフォルがくすりと、声をこぼして笑った。 「本当はアルスのクソ野郎ひっぺがして、滅ぼしちまいたかったんだけど、しょうがないから一旦あんたたちに預けるって」  ザフォルが練り上げて引き絞っていた結界を、逆手に構えた。その途端、結界の魔力が凄まじい勢いで逆流し始める。 「何言ってんだ、おい!」  気を抜けば吸い込まれる。そのヴァルディースの前にもう一段、障壁が立ちはだかった。 「あと、愛しのレイスくんにも言っといてよ。また友達になってやってくれ、って。でも今度はサーレスって、呼んでやってほしいなぁ」  女を閉じ込め、結界を背に苦笑したザフォルの言葉は、ヴァルディースにはさっぱり意味がわからない。  巨大な空間の歪みがその背後で口を開けた。魔力の逆流が加速する。  ザフォルの額には大粒の汗が浮いていた。あの男は結界ごとあの女とスィッタを夢幻境界へ飛ばすつもりなのだ。 「しばらく戻ってこれないと思うんだよね。でも大丈夫。ヴァシルはセリエンに抑えてもらってるから、当分は動けない。悪さするとすればクレイとエイドスあたりかな。その辺はあんたらにお願いすることになるかも」  ごめんね、と、息切れをしながらもおどけるような仕草で頭を下げたザフォルを、ヴァルディースは結界に阻まれ呆然と見ているしかできない。 「じゃ、またね」  最後までふざけた笑みを浮かべたまま、ひらりとザフォルは残った片手を振った。  その瞬間、目の前で空間の歪みが弾けて消えた。何事もなかったように、南国の太陽が惜しみなく光を大地に降り注がせる。  下では何も知らない人間たちが、変わらず平穏な日常を繰り返していた。今の今まで壮絶な戦いが繰り広げられていたなんて信じられないほどに、穏やかだ。 「これ、で終わりだってのか? 結局わけのわからないままだろうが!」  最初から最後までザフォルは一方的で、自分勝手だった。怒りを晒してもその相手はどこにもいない。  グライルも消えてザフォルも消えて、大きな世界のうねりが丸ごとどこかへ行ってしまった。大団円には程遠く、飲み込むことのできないトゲが喉に刺さっているようだ。  城の上でフェイシスがユイスに駆け寄りきつく抱きしめるのが見えた。ユーアがメイスを助け起こし、そこにエミリアがタトラに伴われて駆け寄っていく。  離宮の前に、一人の少年が倒れ込んでいた。ロゴスを貫いた光の剣の傍らに。その白く小柄な体を、メルディエルの女王がそっと優しく抱き寄せた。

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