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おれは深谷恵司という。二十六歳の、どこにでもいる若手サラリーマンだ。趣味は昔のロック音楽を聴くことと映画鑑賞、お菓子作り。会社の成績は中の中。小さな保険会社の営業をしている。自分で言うのもなんだが、顔はそこそこいい。身長も百八十センチはある。アヤさんは初めて知り合ったとき、おれのことを「爽やか系イケメン」と評した。
でもまだ独身、彼女なし。もう七年も。
顔と身長はそこそこ、性格もまあ無難、なおれに彼女ができない主な原因は、おれの性癖が尖りすぎているから。
その尖った性癖を知っている唯一の人、それがアヤさんだ。
〇
「はい、到着。暖房つけるけどうち扉のたてつけが悪くて隙間風あるから、しばらくコート着てたほうがいいよ」
アヤさんは親切にそう教えてくれて、ストーブをつけ、エアコンまで入れはじめた。おれはホットカーペットの上に座って、ぼんやりそんなアヤさんを見上げていた。
アヤさんの家は、鉄筋コンクリート造りのアパートの二階にある。一階は彼が経営する喫茶店兼バー”Modern Times”で、三階の二部屋は人が借りて住んでいる。
「いや、今、一部屋空いてるんだ。カップルで住んでたんだけど、女性がけんかして出ていっちゃって、男も追いかけていっちゃったんだよ」
そう言って、アヤさんはおれにあつあつのコーヒーを出してくれた。立ち昇る湯気とコーヒーのいい匂いに、元気が出ていた。
「ありがとうございます。アヤさんの淹れてくれるコーヒー、大好きなんです」
「よかった。酔い覚ましにはこれだな」
そう言って、アヤさんはおれの右向かいに腰を下ろした。こたつのスイッチを入れたらしい。こたつ布団の中があったまっていく。
「おれ、あまり酒、強くなくて」
コーヒーをすすりながら、おれはぼそぼそと言った。
「ワインで酔っちゃって、鍵を落として、情けないです」
「きみは初めてうちで呑んでくれたときも泥酔してたな、ドMの深谷君」
おれはきっとアヤさんを睨んだ。アヤさんはにこにこしている。その顔が優しくて、まるで幼い甥っ子を見てるみたいな目で、おれは思わず言葉をなくした。
「大丈夫、おれ引かないし、気にしないから」
アヤさんはそう言ってコーヒーを飲んだ。
〇
おれが初めてアヤさんの店に来たのは、二か月近く前の十一月はじめ。仕事を辞めることになった先輩の送別会の二次会で、上司に連れてきてもらったんだ。
“Modern Times”は夜九時から零時まではバーも兼ねる。五十二歳の上司はアヤさんと旧い知り合いらしく、「いいやつなんだよ」と紹介してくれた。
アヤさんはみんなから「アヤさん」と呼ばれていた。おれは一目見て、その大人の魅力に射抜かれた。男だけど、アヤさんの色香を感じたんだ。
黒縁眼鏡をかけて、黒いシャツを着てギャルソンのつけるエプロンを締め、中背で引き締まってて、それはかっこよかった。表情もまたアンニュイで、ちょっと眠そうな目がセクシー。態度も落ち着いていて、笑顔にも大人の余裕が漂っている。ミステリアスで、おれは憧れた。こんな大人になりたいなと(おれももう二十六だけど)思った。
アヤさんは話がうまくて、気遣いの人で、サービス精神旺盛だった。おれたちにうまい酒やコーヒーを出してくれて、外は冷えてきたからって、お冷の代わりにホットウーロン茶を出してくれる。ツマミも出してくれたけど、それがお手製の肉じゃがで、とても美味かった。
おれとアヤさんは料理の話で盛りあがった。おれがお菓子作りが趣味だと言うと、アヤさんはシュークリームを一度作ったけどうまくいかなかった、と答えて、おれがコツを話したり。アヤさんは他の客に話しかけられると愛想よく答えていたけど、結局はおれとの会話に戻ってくる。
そうやって楽しく呑んでいたら、おれは呑みすぎていた。
深谷、もう帰るぞという中川課長の声が聞こえたけど、おれはカウンターに頬をくっつけて、目が開かなくなっていた。アヤさんの声が聞こえてきた。
「大丈夫ですよ、中川さん。おれが見てる。目が覚めるまでここに寝かせておくから」
悪いなアヤさん、よろしくなという声も聞いた。おれは安心して、本格的に眠りについていた。
それから一時間くらい経ったころ。目が覚めるとおれはソファに寝かされていて、体には店に置いてあったひざ掛けが掛けられていた。アヤさんはカウンターの向こうで雑誌を読みながら煙草を吸っていた。
おれはその色香に見とれた。
アヤさんはおれの視線に気がつくと顔を上げ、こう言った。
「深谷君、ドMなの?」
おれは唖然となった。一瞬動きが止まり、次には恥ずかしさがこみあげてきて、全身を内側からがたがたと揺さぶった。
「え、え、なんですか一体そんなことないですよ!」
動揺のあまり目を泳がせてそう言ったら、アヤさんはにこっと笑った。
「きみをソファに移動させたとき、自分で言ってたんだけど」
おれが無言になると、アヤさんは腰を上げて煙草を灰皿でもみ消しながら言った。
「『おれ、ドMだから彼女できないんです、どうしたらいいですか』って。あれ、事実?」
アヤさんはカウンターから出てくると、呆然としているおれの前までやってきて、なにかを差し出した。なにかと思えばあたたかいウーロン茶だった。
「ん。酔い覚ましに飲んで。きみがもしドMでも、おれは引かないから気にしないでって、言っておこうと思って」
そう言って微笑むアヤさんの大人な態度と包容力に、おれは安堵で膝から崩れ落ちる思いだった。湯気のたつカップを受け取り、おれは目をうるうるさせながら言った。
「そ、そうなんです……じつは。好きになっても女性から気持ち悪がられて、彼女ができなくて……じ、じつは、二回しかしたことないんです……」
思わず、そんな恥ずかしい話をしていた。
アヤさんはソファの、おれの足元のほうに腰を下ろし、穏やかに尋ねてきた。
「そういうお店に行こうと思ったことはないの?」
「あの……潔癖とか青いって思われるかもしれないけど、おれ、ほんとに好きな人とでないとそういうことしたいって思えないんです」
「潔癖で青いというよりかは、誠実なんだよ」
アヤさんは真面目な顔でそう言ってくれた。おれが赤くなっていると、顔を覗きこんでこう言った。
「ほんと、気にしないでね。そういうの、理解してるというか、多様性として処理できるから」
大人だな……。おれはアヤさんの顔を憧れの目で見てしまった。彼はくすっと笑った。
「おれ、元AV男優なんだよね」
「……え?」
思わず声が裏返っていた。
「え、ええAV男優? ですか……?」
「うん。これでも若いころはけっこう稼いでたんだよ。出演してる女の子にも、相手役ならあの人がいい! って指名されたりしてね。SMものにも出たことあるから。あ、でもおれ、SでもMでもないけど」
そう言って微笑むアヤさんの笑顔を、おれは畏れ半分で見つめることしかできなかった。
それが、おれがアヤさんの過去を知った最初。
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