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第2話・初日・1
梅雨入りしたのにカラッカラのいい天気。電車を乗り換え、単線でしかも車両が一つだけっていう電車に乗り、そこから本数が少ないバスに乗り、三時間ほどかけてようやく弥勒院家にたどり着いた。電車もバスもなかなか来なくて、思ったより時間がかかってしまった。
ど田舎だ。俺の住んでる街にはビルもありショッピングモールもあるが、ここにはコンビニすら無い。駅前に小さなスーパーと郵便局と交番はあったが、後は田んぼや畑だらけ。周囲は山に囲まれている。ここの人たちは、普通に生活していけるのだろうか…。
それより、この弥勒院家だ。真っ白な土塀がどこまでも続く。塀の向こうは松、松、松。やっと屋根瓦が見えたけど、これまたどこまで続くのか。大豪邸じゃないか!
これは食事が期待できそうだ。
頭の中を音符だらけにして進んで行くと、やっとこさ門が見えた。立ち止まった瞬間、汗が吹き出る。
分厚そうな木の扉、右上には『弥勒院』と掘られた石の表札、謎の太い綱。その下には郵便受けらしき金属の枠の穴と――インターホンが……無い。
どうすんだろ、扉を叩けばいいのか。ドンドンドンと拳を打ちつけてみたが、返事が無い。そりゃあ、こんな豪邸だもんな。聞こえるわけないか。
じゃあ、どうすりゃいいんだ。扉は堅く閉ざされている。
「あのー、ごめんくださーい」
腹からありったけの大声を出しても、ウンともスンとも言わない。こうなったら、この高い塀を乗り越え――いや、無理だな。
ところで、さっきから気になっていたんだが、表札の横にぶら下がっている綱は何だろう。先が結ばれている。もしかして、この綱を引っ張るのか?
ものは試し、と引っ張ってみた。綱は十五センチほど下がる。手を離すと、元の位置に戻った。もう一度引っ張ってみる。
これがインターホンの代わりかどうか、違っていたら電話して聞いてみればいいか、と待っていると、木の門がギギギッと軋みながら開いた。
「…恐れ入りますが、野崎晃様でしょうか?」
中から出てきたのは、やたらと背の小さいおじいちゃん。背中が曲がっているから、余計に小さく見える。角刈りの頭は、塩の白が勝ってるごま塩頭。濃い灰色の作務衣を着ている。
「はい、野崎晃です。すみません、遅くなりまして。バスがなかなか来なくて…」
「いえいえ、慣れない方には、この辺りの交通は不便ですからね」
にっこり笑うと、きれいな歯並び。きっと入れ歯だろう。シワの深い、温厚そうなおじいちゃんだ。うちのおじいちゃんとあまり歳が変わらないとしたら、七十歳過ぎかな。
おじいちゃんは、丁寧にお辞儀をする。
「申し遅れました。わたくし、弥勒院家で世話係をしております、毒島でございます。電話に出させていただいた者で」
想像とは全く違い、手は鉤爪じゃないし眼帯もしてないし、肩にカラスも乗っていない。優しそうな人でよかったと、胸をなで下ろす。
毒島さんに案内されて中に入ると、玄関まで石を敷き詰められた道が真っ直ぐ伸びていて、上は屋根で覆われている。
左右はきれいに手入れされた、何だかわからない木。それに松。
「あの…表札の横の綱、あれはインターホンの代わりだったんですか?」
毒島さんが振り向いてうなずく。
「左様でございます。旦那様も先代の旦那様も、この屋敷の外観が損なわれるのを嫌いまして、インターホンは使っておりません。あの綱がこの屋根の中を通じて、使用人たちの部屋などに繋がっておりましてね。そこに鐘がありますので、それで来客を知るのです」
なんちゅうアンティーク! そういや、もう一つ気になることが。
「あの~毒島さん、何で俺が野崎晃だってわかったんですか?」
毒島さんはまた、振り向いてニッコリ笑った。
「ほかのアルバイトの皆様は、先にご到着されてますから」
…てことは、俺だけが遅刻かっ、やべえ。
「うわっ、ホントにすみません! 電車の乗り換えが…一時間に一本しかないとは思わなくて…バスも…」
ホッホッホと、サンタクロースみたいな(かどうかはわからんが)のんびりした笑い声を上げ、毒島さんは穏やかに言う。
「先ほども申し上げましたが、都会でバスや電車の本数が多い生活をなさっていては、致し方ないこと。田舎の者は、あまり時間にはこだわりません」
毒島さんって、思ったよりいい人だ。ここでの仕事がやりやすそう。
「ああ、応募用紙をいただけますでしょうか」
俺はバッグから、駅に貼られていたチラシを渡した。名前や住所などを記入している。
「もう一度確認しておきますが、お医者様にはかかっておられませんね?」
「はい、生まれてこの方、病気らしい病気はしていません」
それは何より、と毒島さんは玄関の引き戸を開けた。まるで旅館だ。大きな屏風、下駄箱の上に生け花。廊下には、子供が入れそうな大きな壷。
「近くにお医者様はおられるのですが…旦那様のかかりつけ医ですがね。持病がおありだとすれば、お薬のご用意ができますかどうか、保証はできかねますから」
そのために、健康な人を募集してたんだ。
長い長い廊下を、ひたすら歩く。道に迷いそうだが、途中に飾られている絵や、台に置かれている壷が目印になりそうだな。
「本来ならば、旦那様にお会いしていただきたいところですが…何分、体調が思わしくなく、認知症もございまして…会話もままならない状態でして」
それで家の中のことは、弥勒院さんに変わって毒島さんが取り仕切っているらしい。
何枚もの襖と壁を通り過ぎると、毒島さんは膝をつき、両手でそっと襖を開ける。
「失礼いたします」
手をついてお辞儀をした後、毒島さんは俺を室内に案内した。十二畳ほどの広さがあるだろうか。床の間の前に座布団が敷かれ、三人の男が座っていた。みんな、俺とあまり歳が変わらないかも。その中に、あの眼鏡男もいる!
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