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第24話・八日目・1
その日は朝から大雨だ。何となく涼しい。梅雨が明けたら本格的に暑くなるから、いくら扇風機をつけても蔵の中はキツい。できれば梅雨明け前に終わらせたい。
米澤さんがいない分、効率は下がるかもしれないけど仕方ない。
「あー…、この本…『三國志演義』って書いてるよ。米っち、喜んだだろうな」
残念そうに大介が言う。顔をほころばせ、ページをめくる作務衣姿の米澤さんが目に浮かぶ。
「…毒島さんに頼んで…警察に連絡してもらうか…?」
馬場くんが、苦しそうにつぶやいた。もしも内緒で外に出たとして戻ってこないということは、崖で足をすべらせたとか、川に落ちたという可能性があるかもしれない。交通事故という可能性もあるが、テレビも新聞もそんなニュースは無い。
昼に、毒島さんに提案してみた。毒島さんは、近い内に交番で相談しましょうと言ってくれた。
午後の作業で、丸椅子に腰掛けた馬場くんが、ジャンル分けした本の中の経本を読んでいた。
「摩訶…般若 波羅 蜜多 心経 」
作務衣姿でそんなことをつぶやく馬場くんが、お坊さんに見える。
「どうしたの、馬場くん」
「もしかしたら…」
眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、馬場くんが立ち上がる。
「十円札の下から出てきた“摩訶”と暗号の“おしえ”が繋がっているとすると、『摩訶般若波羅蜜多心経』、つまりこの般若心経じゃないかと」
検品をしていた大介が、顔を上げる。
「なに、馬場ちゃん? 教えって…、お経って死んだ人に読むレクイエムみたいなもんじゃね?」
お経を聞くといえば俺も大介と同じで、お葬式を思い出すんだが。だから馬場くんの言う“教え”の意味がわからない。お葬式で亡くなった人に、何を教えるんだろう。
「元々は生きている人のために、人生の指針などを説くためのもんだ。おそらく仏教では、死は完全なる消滅ではないから、来世のことや極楽浄土へ行く方法などを説いたんじゃないかな」
馬場くん曰わく、宗教は哲学に似ているそうな。そういう話、俺には難しいけど。
「わからないのが、“おしえのもとに いざひらけ”なんだ。経本を開いてみてもわからない」
三人で、一生懸命知恵を絞り出す。知識のある馬場くんが手こずるほどだ、俺にはさっぱりだ。
大介が馬場くんの手元を覗く。
「そのお経の中にさ、何か挟まってたり印とかは無いの?」
「無い。挟んであったらすぐにわかるし、修復師ともあろう人が、貴重な本に印をつけるとは思えない」
「もしかして――」
知識はなくても、可能性にかけたい気持ちはある。
「般若心経の経本ではなく、それに関する絵とか書とかかな?」
「その可能性はあるかもしれない。摩訶とつく経本でさえ、般若心経以外にもあるし。こいつにこだわり過ぎるのもよくないな」
「よっしゃ!」
大介が脚立に上り、棚をくまなく探す。
「それっぽい物、見つけよーぜ! アキラちゃんは、隅の方にある箱ヨロシク!」
俄然やる気を出した大介につられ、俺も絵画や書がほかに無いか探す。そうして作業に集中でもしていないと、米澤さんの身に何かあったのか、悪いことばかり考えてしまう。
それは馬場くんも大介も同じだった。
しかし、その努力もむなしく、成果は何も得られなかった。
作業の時間が終わる。俺たちは午後五時以降、蔵には入れない。大介が茶髪をかきむしる。
「残念だなぁー、こんなに漁ってみたのに。あ、そーだ! 英吉さんなら、何かわかるかな?」
英吉さんなら、蔵書に詳しいかもしれない。般若心経の本は、箱ごと『宗教』と書かれた修復不要の柳行李に戻した。
俺たちは修復が必要な本を持ち、離れの作業場に向かった。
英吉さんは、和綴じの本の修復中だった。糸を外し、ページをバラバラにして、破損が激しい所を修復していく。
全く読めない所は資料を元に書き直すこともあるそうだが、多少の破れやシミは、それが趣があるらしく、修復しないそうだ。
奥の部屋に続く引き戸を見て、馬場くんが言った。
「英吉さん、部屋の電気が点けっぱなしですよ」
「ああ、うっかりしてたよ、ありがとう。冷たい飲み物を入れてくるから、待ってて」
部屋に戻った英吉さんは、しばらくしてからアイスコーヒーのグラスを持って作業場に戻ってきた。今度は電気を消している。作業に集中していて、消し忘れたんだろう。
般若心経以外に、“摩訶”に関する書画などがあるか、馬場くんが栄吉さんに尋ねてみた。
栄吉さんは腕を組み、天井を見上げる。
「うーん…、本では思い当たらないな…。絵画では『摩訶曼珠沙華』『摩訶曼荼羅華』…あたりだろうけど、確か戦時中に空襲で焼けたとか」
じゃあ、蔵の中には般若心経以外、『摩訶』に関するものは無いのか。
馬場くんが眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。
「ヒントにあった『摩訶』は、蔵の中でたった一つ関連性のある般若心経で間違いないでしょうね。もし、いくつもあったら弥勒院さんが謎解きをするときに、必要以上に難解になる。ほどよい謎として、蔵書を知る者なら必ず思い浮かぶ般若心経を選んだ、と思われます」
自信たっぷりに論じた馬場くんだが、大きく息をついて肩を落とした。
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