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第25話・八日目・2

「ただ、般若心経の経本を見ても、何のヒントも無いんです」  謎は行き詰まってしまった。絶対、何かが隠されているに違いないというのに。  英吉さんがまた腕を組み、天井を向いて目を閉じる。 「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空… (かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみったーじー しょうけんごーうんかいくう…)」  まるでお坊さんがお経を唱えているみたいだ! 「凄い! 全部暗記しているんですか?」  英吉さんが、ちらりと俺を見た。 「まあね、これだけは覚えているよ。経文の中に何かあったかなあと、思い返してみたんだ。でも、教えの中で何をヒントにしているのか、次の“はいざんの こう”以降の意味に繋がるものは見当がつかないな」  おもむろに立ち上がった英吉さんは、隣の部屋に向かう。 「アイスコーヒーのおかわりはどう?」 「あ、俺も手伝います」  立ち上がった俺を、英吉さんは手を振って制した。 「いいよいいよ、座ってて。僕が入れてくるから」  しばらくすると、グラスを四つ乗せた盆を持ち、英吉さんが戻ってきた。部屋には冷蔵庫まであるらしい。英吉さんの話では、作業が深夜までかかることもあるため、夜食や飲み物が欲しくなったとき、台所まで行かなくてもすぐに取り出せるように、とのことだ。確かに、この離れから台所までは遠い。車の免許を持っている英吉さんは、たまに駅の近くのスーパーに行くそうだ。源さんの買い出しのときにも車を出すらしい。 「…ま、たまには頭をゆっくり休めるのもいいよ。蔵の作業はまだまだだし、焦らなくても」  英吉さんの言うとおりだ。俺たちは必死になり過ぎて、何か見落としていることがあるのかもしれない。  アイスコーヒーの深みのある香りが、癒してくれる。 「あ…あの…英吉さん、教えてほしいことがあります」  俺は自分の匂いの秘密を知りたかった。両膝の上に乗せた拳をギュッと握り、思い切って尋ねた。 「俺の匂いって、何なんですか? 自分では全然気づかないんですが」 「それ、オレも知りたーい」  大介が右手を挙げて明るく言う。 「いや、作業が全部終わってから話してあげるよ。もしも秘密を知って何か対策を取られたら、まことに残念だからね」  目を細めて愉快そうに言う英吉さんを見て気づいた。  ここには英吉さんと馬場くんと大介、まるで狼の巣に飛びこんだ羊じゃないか俺は! 「行こう、晃。早く風呂に入らないと、夕食の時間になる」  馬場くんが俺の腕を取って立ち上がる。 「そーだそーだ、アキラちゃんといっしょにお風呂しなきゃねー」  大介がくっついて、腰に手を回す。  これって…、三人でお風呂しないといけないの?! 暴走を止めてくれそうな米澤さんがいないのに? 「お、俺は一人で入るからっ」  二人を説得するのに骨を折りながら、英吉さんに仕事の邪魔をした詫びをして作業場を出た。  夕食後、馬場くんは応接間のソファーで、暗号の紙を睨んでいた。 「…教えのもとに、は般若心経に関係するとして、廃山の鋼鉄って何だろう…」 「馬場くん、廃山って何?」  テーブルを挟んで向かい側にいる俺が身を乗り出すと、馬場くんも身を乗り出す。顔が近いんだけど…。 「廃止された鉱山なんだ。鉱石が出なくなったか、それ以上掘ると土砂崩れするか何かだろうな」  なるほど。“廃山の鉄鉱石”って意味なのか。 「廃山なのに鋼鉄とは、どういう意味なんだろう。やっぱり、般若心経の謎をきちんと解かないといけないのか。次の“引く”も意味がわからない」  馬場くんは頭を抱えてしまった。馬場くんに変わって、俺が紙を睨む。 「何か鉄鉱石に関わるものがあるのかな…。ほら、暗号の最初の、“まゆづきよ”が半月でもよかった、みたいに五七調にするために廃山を選んだだけであって」  この屋敷か蔵のどこかにある鋼鉄製のもの。それが何なのか、その答えは般若心経にあるのか…。  しかし、“はいざんのこう てつにひく ふたつのやまを いざひらけ”  最後に山を開けって言ってる。…やっぱり、山が関係するのかな。 「うわっ、やべー」  大介がキョロキョロし出した。かと思うと、よく磨かれた床に這いつくばった。 「大介、どうしたんだ? 探し物?」 「うん、ピアス。片方無い」  金色の小さな丸いピアスが無くなったらしい。 「いつから?」 「今気づいたけどー…。風呂場かなあ」 「排水に落ちたら大変だよ。俺も手伝おうか?」 「いーよいーよ、アキラちゃんは先に寝てな」  大介が俺の肩を抱き、“おやすみ”と頬にキスをした。 「なっ、何してんだよ!」 「はははっ、じゃーね」  手を振って風呂場に向かった大介の背中には、馬場くんから眼鏡越しに恐ろしいビームが突きささっているような気がした。  そして翌日、まさかそんな事態になるとは、誰が予想しただろう。

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