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第29話・十日目

 ここでのアルバイトも、十日目になった。作務衣にもすっかり慣れた。確か、今日は水曜日だから夕食がカレーの日。米澤さんや大介も喜んだろうな…。  そんなふうに考え事をしながら作業を進める中、馬場くんが必死に柳行李の中を探している。 「どうしたの? 探し物?」 「般若心経が箱ごと無いんだ」  上等な桐の箱におさめられていた、般若心経の経本。暗号のヒントが隠されているかもしれない、そう睨んだ本だ。 「別の所に入ってない?」 「いや、あちこち探してるんだけど…おかしいな」  馬場くんはキチンと、“宗教”と書かれた柳行李に入れたはずだ。念のためにほかの柳行李も見たが、間違って入っているなんてことはない。  修復に出す本を入れる柳行李も見たけど、やっぱり入っていない。 「…英吉さんが修復するものと間違えて、持って行っちゃったのかなあ」 「じゃあ、この修復する本を持って行ったついでに聞いてみるか」  後片付けを終え、修復が必要な本を栄吉さんの作業場に運んだ。雨が降っていたため、柳行李を運ぶ馬場くんに、俺が番傘をさしてあげる。  作業場の外から英吉さんに声をかけ、引き戸を開けた。英吉さんは、いつものように大きな机の上で作業中だ。 「お疲れ様、今日はいつもより少ないね」 「はい、でも毎日だいたい修復する物があるから、今までかなり作業がたまってるんじゃないですか?」  この家で古書や書画の修復ができるのは、英吉さんだけだ。俺たちが分類した本は作業場内に積み上げられ、ずいぶん高くなっている。 「まあ、博物館に向けての大事な仕事だからね。数は多くてもやりがいはあるよ」  英吉さんはそう言うが、睡眠時間をけずっているのだろうか、顔色が何となく悪そうだ。もともと色白な人だけど、さらに血色が悪くなっているような。米澤さんや大介のこともあるし、心労がたたっているんだろうか。 「無理しないでくださいね」  英吉さんは銀縁眼鏡を外すと、首にかけていたタオルで顔の汗をふき、“ありがとう”と微笑んだ。作業中、汗が紙に垂れないように、汗はこまめに拭かないといけないそうだ。  柳行李をいつもの所に置き、馬場くんが尋ねる。 「ところで英吉さん、般若心経の経本はこちらにありますか? 桐の箱に入ってたやつです」  思い出そうとしているのか、眼鏡をかけなおして宙を見上げ、栄吉さんが何か考える。 「えーと、般若心経の経本ねえ…どこかにやったかな…。あー…そうそう、般若心経の一文を引用していた本が破れていてね、そこを修復するのに経本を持ってきたっけね」  なあんだ、ちゃんとここにあるじゃないか。 「では、家宝を探すときに、こちらに見に来ていいですか?」 「いや、後で蔵の柳行李に入れておくよ。その本の修復作業は、もうすぐ終わるからね」  英吉さんにお礼を言って、俺と馬場くんは作業場を出た。  渡り廊下を歩き、母屋に入る直前に、ふと馬場くんの足が止まる。そして、作業場を振り返る。 「何? 馬場くん、どうしたの?」  下から見上げた馬場くんは無表情だ。 「おかしい」 「何が?」  馬場くんの顔を覗いてみたけど、その目はどこを見ているのかわからない。 「おかしい…。確か…全部覚えているはずだ…」 「な…何だよ、どうしたんだよ」  数回瞬きした後、馬場くんはおもむろに聞いてきた。 「晃…。英吉さんは、だらしない人とかうっかり屋に見えるか?」 「何だよ、急に。几帳面な人に見えるだろ。うっかり屋な人だったら、古書の修復みたいなデリケートな仕事なんてできないだろうし」  と、これは俺の推測でしかないが、どう見ても栄吉さんはだらしないとか、うっかり屋には見えない。いったい、馬場くんは何が言いたかったのか。 「いや、そうでなければいいんだ。…いや、違うな。そうであってほしかったんだ」  と、意味深なことをつぶやき、母屋に向かって歩き出す。 「ちょ…馬場くん、どういう意味か教えて」  背が高い馬場くんの大きめなストライドに、俺の番傘はついて行けない。傘は一つしか持ってきてないんだぞ、濡れるぞっ。 「何でもない、気にするな。それより今日はカレーだ。楽しみだな」  ふーん…、馬場くんも普通の男子みたいにカレーが好きなんだな。ちょっと意外だな。  けど、楽しみだと言うわりには食事中はずっと普通で、むしろ何か考えこんでいるようで、馬場くんはいつもより口数が少なかった。

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