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第31話・十一日目・2

 かれこれ十五分ほどたっただろうか。蔵に近づいてくる人物がいる。彼は蔵の鍵を開け、中に入った。  馬場くんがそっと立ち上がる。唇に人差し指を当て、俺に“静かに”と無言で伝えて、音を立てないよう忍び足で蔵に向かう。草履で音を立てないように歩くのは難しいが、俺も馬場くんの後に続く。 「うわっ!」  蔵の中から、叫び声が聞こえた。馬場くんについて俺も蔵に突入する。 「引っかかりましたね、英吉さん」  本棚の前で尻餅をつき、頭から粉をかぶって真っ白な英吉さんが咳こんでいた。丸眼鏡が真っ白。でも、眼鏡のおかげで目の中には粉が入っていないようだが。 「ゴホッ…、子供じゃないんだから…こんなイタズラ…ゴホッ」  顔をしかめて馬場くんを睨む英吉さんに、馬場くんは謝りもしない。あのとき、棚に置いていたのは本ではなく、底が穴だらけの紙箱で、中には小麦粉が入ってた。うっかり取ると、底から粉がもれてかぶってしまう仕組み。粉に驚いて手を離したから、英吉さんは頭から粉をかぶってしまったんだろう。  箱があった場所は、背が高い英吉さんなら脚立を使わず、手をいっぱいに伸ばして取れる高さだ。もしも脚立を上がっていたら、大けがをしたかもしれないのに。 「馬場くん、何てことしてんだよ!」  俺の叱責を無視し、馬場くんは英吉さんに向き合う。 「俺たちが蔵に入れるのは、明日の朝。英吉さんはそれまでにいち早く暗号の謎を解いて、俺たちを出し抜きたかった。違いますか?」 「…何の話だい?」  周囲の本は整理済みで、幸い本は無い。英吉さんは頭や顔、作務衣についた小麦粉を手ではたいた。 「英吉さんは俺たちより早く暗号を解きたいため、般若心経を箱ごと奪って行った」 「人聞きの悪いことを言うね。僕は君たちみたいに、家宝を見つけたって報酬は出ないよ? それに般若心経の経本だって、きちんと返していただろう?」  最初は怒っていたものの、英吉さんの口調は落ち着いてて穏やかだ。笑みも浮かんでいる。 「あなたは般若心経をそらで唱えるほど暗記していた。だから、般若心経の一文を引用した書物を修復するために、経本なんて必要ないはずです」  ぴくり、と英吉さんの眉が動いた。それでも表情は崩れない。 「大事な本の修復だからね。経文を音で覚えていても、漢字の間違いがあっちゃいけないから、確認のためだよ。今日も蔵に入ったのは、シルクロードに関する本がまだあったのかと、確認するためだよ」 「明日お持ちします、そう言いましたよね。それまで待ちきれませんでしたか?」  英吉さんの表情が変わる。笑みが完全に消えた。 「謎解きが急展開になり、焦った英吉さんは、先に家宝を見つけようとした。俺の言葉、“最後のヒント”に触発されて」  どういうことだろう? 英吉さんが先に家宝を見つけようとした? 「あなたは報酬のためではなく、家宝を見つけてほしくないんじゃないですか? だから、米澤さんや大介が邪魔になった。二人があのわらべ歌の呪いになぞらえたような謎の失踪をすれば、家宝探しどころではなくなる。俺たちにわらべ歌の呪いの恐ろしさを知らしめるために、あなたはわざわざトイレの前にあった押し絵の台紙の端をちぎり、修復が必要なものとして蔵に運んだんだ」 “どこに証拠が――”と言う英吉さんの言葉をさえぎり、馬場くんは畳みかける。 「たった数日間しかここに滞在していない俺や大介まで、あのわらべ歌の押し絵がトイレにあったことを覚えていました。それなのに何年もこの弥勒院家に住んでいるあなたが、そのことを覚えていないなんて、おかしいでしょう」  しばらく英吉さんは黙った。黙ったままうつむいて首を振る。 「…参ったね。君は古書や宗教に詳しいだけでなく、名探偵の才能もありそうだ」  まさか、そんな…。英吉さんが二人をさらった?  俺はその場に立ち尽くしてしまい、何も言えなかった。 「そうだよ、僕は家宝を見つけてほしくなかった。だから君たちが邪魔だった。四人のうちなら、何人でも誰でもよかったんだけどね」  英吉さんが犯人だったなんて! そこまでして家宝探しの邪魔をしたいだなんて…。家宝とはいったい、何だろう? 見つけてほしくない理由とは…。  馬場くんが冷静に英吉さんを見据える。 「英吉さんが俺を狙わなかったのは、古書に興味がある俺を引き離せそうにもないから。晃を狙わなかったのは、真面目そうなタイプだし英吉さんの口車に乗らないだろう、そう思ったから」 「ご明察だね。全くその通りだよ」  頭をボリボリとかきながら、白く舞う粉の中で英吉さんが小さな声を立てて笑う。 「米澤さんと大介の居場所、それは離れの作業場の隣、英吉さんが寝泊まりをしている部屋ですね?」 「そこまでわかっていたとは…」 「えっ? それじゃあ、米澤さんと大介は無事なんですか?」  栄吉さんの穏やかな目が、俺の方を向く。 「そうだよ。二人はずっと、僕の部屋にいた」  トイレと洗面所は離れにある。風呂は深夜にこっそり入らせていた。食事はわざわざ、英吉さんが駅の近くのスーパーまで行って買ってきたそうだ。  携帯電話やパソコンは、英吉さんが毒島さんの部屋にこっそり忍びこみ、取り出して使わせていた。夜、毒島さんが戻るまでに、部屋にそれらを戻しておく。コンタクトレンズの消毒液は大介の部屋に置いたままだったが、それも英吉さんが大介の部屋に忍びこんで持ってきて、また部屋に戻しておいたから、大介はちゃんとコンタクトの消毒はできたそうだ。  車とはいえ、ほぼ毎日スーパーまで往復していた。毒島さんと大介の部屋に、何度も忍びこんでいた。おまけに二人の洗濯物まで、夜中に英吉さんがしていた。そんなことを繰り返していて、英吉さんは体も神経も疲れてきた。だから顔色がなんとなく悪かったんだ。  馬場くんが英吉さんの肩をポンと叩く。白い粉が散った。 「いっしょにお風呂に行きましょう。そこで全部、話してくれますね」  二人の顔には、再び笑みが浮かんでいた。  蔵の掃除は明日するとして、俺も風呂に引っ張って行かれた。

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