46 / 47

第46話・翌年の春・2

「営業妨害ですから、手をお離しください」  と、馬場くんは俺の肩を抱き寄せる。 …だから、俺は厨房に入りたいんだってば。  馬場くんと俺は、この弥勒院家で住み込みだ。毒島さんが館長で、馬場くんは館長補佐として事務仕事やお客様用スリッパの消毒、館内の掃除などを手伝っている。院に進んで大学教授になるという道を捨てて、『弥勒院古書博物館』に一生を捧げると言う。 「もー、馬場ちゃんたらー。オレとアキラちゃんがイチャついてたら、すぐヤキモチ妬いてしゃしゃり出てくるー」  口を尖らせる大介も、一歩も引かず握る手に力を入れる。  女性客たちからは、「萌える」「しんどい」「尊い」などと話し声が上がる。そして、 「このカフェの名物よね」  なんて言う。カフェの名物は『小町パフェ』なんだけどな。かくして、俺もすっかり有名になっている。  午後七時、閉館の時間だ。カフェも六時半がラストオーダーで、午後七時には閉まる。  後片付けを済ませると、弥勒院家の台所から一番近い部屋で、俺と馬場くん、毒島さんと英吉さんと源さんが食事をとる。  あの『古銭の間』は展示室になっている。枯山水も眺められる、ちょっと風流な展示室だ。  俺たちの居住区域は、この食事をしている部屋と、隣の毒島さんの部屋、その隣が源さんで、その隣が馬場くん、俺の部屋と続く。弥勒院家の仏壇は、毒島さんの部屋に移された。  食事が済み、風呂に入った俺は、カフェの椅子を引っ張り出して、フランス窓を開けて池を眺めていた。今日は三日月で、池には“さかづき”が映っている。都会と違って不便なことはいろいろあるけど、こうしてのんびり過ごせて楽しい。  近所の人がよくカフェに来てくれて、おまけに農家から安くお米や野菜を仕入れさせてくれて助かっている。  ゴトンと音がして、隣に椅子がもう一脚置かれた。風呂上がりで浴衣姿の馬場くんが、牛乳瓶を持って隣に座る。 「晃もここの月が好きか?」  馬場くんが俺に牛乳瓶を渡す。わざわざ脱衣所にある冷蔵庫から、持ってきてくれたんだな。 「うーん…。何となく、懐かしいなって気がするし」  十ヶ月前、暗号に苦戦した。あのころは心に余裕がなかったけど、今はこうして月を見ていると、何となく落ち着く。弥勒院さんも、こうして月を見ていたんだな。  グビグビッと半分ほど牛乳を飲むと、横から馬場くんが瓶を奪う。残り半分を、馬場くんが飲んじゃった。 「何だー、一本まるまるくれるんじゃないのかぁ」  残念そうに言うと、馬場くんは三日月を見上げて、ついでに眼鏡のブリッジも指先で押し上げる。 「間接キスしたかったから」 …牛乳飲んでる最中だったら、鼻から出てたぞ…。 「あ…あの…、馬場くん…、聞きたいことがあって…」 「何だ?」  俺を見つめる真剣な瞳に負けて、思わずうつむいてしまう。 「俺はもう、蔵にも展示室にも近づいてないから、お香のような匂いがしないし…。だとしたら、馬場くんは今、俺のことは好きでも何でもないはずだけど」  栄吉さんの説明では、一日お香の匂いがつけば、一日離れることで匂いも無くなる。あれから何日たっても、馬場くんや大介は、俺に『好き好きビーム』を照射してきた。 「さあな、俺にもわからない」  馬場くんはまた、月を見上げる。 「確かに最初は匂いがきっかけだったけど、今は違う。匂いに惑わされて、なんかじゃない。本気で晃が好きなんだ」 「匂い、ってことはさぁ…そういうことだよね」  お香の効果が無いのは、性体験の無い人とお年寄り。ということは―― 「馬場くんって、お香の効果が出るってことは…、経験…あるんだ」  そんなことをつぶやいてしまって、顔を上げづらい。うつむいたまま隣をちらりと見ると、馬場くんもうつむいて空の牛乳瓶を手の中でもてあそんでいる。 「ああ…。大学の先輩に無理やり連れられて…。その、ソープに…」  なんと! 馬場くんが経験したのは、ソープランドだったんだ!  牛乳瓶が床に転がる音がした。馬場くんは俺の両肩に手を置くと、勢いよく揺さぶった。 「けど、それ一回きりなんだ! もう行きたいとは思わない! 晃が“きれいな体になれ”と言うなら、絶食をして滝に打たれてくる!」 「いや…そこまでしなくていいよ…。」  ただ一つ、つっかえていた物が消えてくれた。  馬場くんが体験した相手、それはどんな人だったんだろう。もしかしたら、今でもその人のことを忘れられなかったりして。  馬場くんはお香の効果がきっかけで俺のことを好きになったけど、その人とはもっと違う、本物の恋愛なんじゃないかって。  それがずっと、気になっていた。かくいう俺は、米澤さんと同じく未経験だ…。  そう、馬場くんの『好き好きビーム』にやられて、俺は馬場くんの告白を受け入れたんだ。なし崩しのような気もするけど、馬場くんのことが気になったり、頼りになると思ったり、いっしょにいて安心したり、馬場くんもここで働くと知って嬉しかったり――友達以上に意識していることは、どうしても否定できないんだ。  ただ、体の関係にはまだ至ってない。キスもまだだ。俺がなかなか踏み出せないんだ。そんな意気地なしの俺を、馬場くんは根気よく待っていてくれる。 「じゃあ、俺が晃しか見ていないって、証明できたらいいか?」  馬場くんの顔が近づいてきた。何度、このシチュエーションを回避しただろう。でも、いつまでも待たせちゃいけない。俺は覚悟を決めて、目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!