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◇ 23話 ◇

* * * 兄と別れた後に大和は当てもなく郭内を、ふらふらと夢遊の如く、さ迷い続けた。 その後、大和にとって唯一落ち着ける場所である【時雨之間】という一室に入ると、その格子窓から外を覗き込む。 昼間ならば何十ともいる使用人がせかせかと、この【時雨之間】と呼ばれる厨房に出たり入ったりして作業しているのだが、今は皆が寝静まっているであろう真夜中故に、ここには己しかいない筈だと大和は考えた。 この格子戸の隙間からは、夜空からのぞく月がよく見える。 今宵の空にぽっかりと浮かぶ月は片隅が欠けてしまっているが、それが何とも儚く魅惑的であるが故にすっかりと見惚れてしまっていた。 しかしながら、格子戸の隙間から吹き込んでくる夜風は冷たい。 このままでは、風邪をひいてしまいかねないと、勿体ないと思いながらも仕方なしに格子窓の縁に手をかけると身を引こうとする。 「____あのような月のことを三日月、という。無論、我子がこの世に生まれ落ち、おぞましき呪縛に囚われ続けている我国――いわゆる湖雨という島国でしか呼ばぬそうだから、智子が知る由などないのだろうが____」 ふいに背後から聞き慣れた声が聞こえてきたため格子窓を閉めるのも忘れ、慌てて勢いよく振り返る。 そこには黒衣を纏い、更には黒の烏帽子を被った髏心后帝の尊がいつの間にか背後に立っていた。 今まで背後に立たれた気配すら、ろくに感じなかった大和は突如として背後から声をかけられ、ましてやそれを発したのが予想すらできなかった、異国の《婀慈耶》から、この世逆島へ来訪してきた【髏心后帝の尊】だからだ。 「智子の名は、確か大和というたかの。極めて良き名だ。智子の父と母は心優しき者だったのだろう。それにしても、智子は兄弟にも恵まれておるわ。何せ、智子の兄は家族を守るために――かような嘘をついたのだから。あのような心優しき者は、そうそうおらぬ。分かっておるとは思うが大切にせねばならぬぞ?」 目を丸くしつつ地蔵の如く固まり続ける大和の心中など、お構い無しに話を続ける。 だが、続けて此方へとかけられた、この言葉ばかりは大和は黙ってはいられなかった。 それゆえ、こう尋ねるのだ。 「髏心后帝の尊様__。あ、あのように心優しき兄が、おらに嘘をついたとは……いったいどうゆうことなんか説明してもらうわけにはいかないやろか?」 あまりにも興奮し過ぎたせいで、大和は取り繕うように学んだ高貴な口調ではなく、ついつい貧民街に暮らしていた頃のありのままの口調で問いかけてしまう。 問いかけている相手が誰なのか、そしてどういう立場なのかも、すっかりと忘れてしまっていることに、ようやく気付いた大和____。 たちまち、顔面蒼白となる。 しかしながら、髏心后帝の尊は一瞬唖然としていたものの、それからすぐに高らかに笑い始める。 そして一呼吸してから落ち着くと、両目から滲んだ涙を黒衣の裾で拭った。 「智子よ……その口調は、いったい何だというのか。我子は湖雨の机上で様々な国の言語や住人の口調を使用人から学んではきてはいたが、そのような奇怪な口調は教人から聞いたことも無い。だが、もしも……その話し方をする智子が偽りのない本来の姿だというのならば、これからもその様でいるがよい。我子は、きわめて気にいったぞ」 そう声をかけられた途端に、大和は途徹もなく恥ずかしくなってしまい、衣の裾で赤く染まった顔を隠しつつ俯いてしまう。 だが、不思議と髏心后帝の尊に対して嫌悪感は抱かなかった。 むしろ《かつて下層な貧民街で暮らしていた》という、嘘偽りのないありのままの己をさらけ出したにも関わらず、嘲笑ったりしない彼の態度を目の当たりにして安堵感さえ抱いたのだ。 ろくに洗髪するできず、延び放題のざんばら頭に、全身から放たれる、すえた匂い__。 それに、いくら振り払おうとも執拗に付きまとってくる蠅や、酷い時には蛆までもが寄ってくるという悲惨な状況__。 食べる物など、草の根や粟が手に入るならば上等とさえいわれるような貧民街での暮らしを否が応でも思い出してしまって再びその顔に憂鬱さが戻ってしまう。 「実は……おらの生まれは、この世逆島じゃないん。おらは、ここから遠く離れた……《案山子街》いう――貧民街の出なん。いくら異国の偉い御方でも名前くらいは聞いたことあるんやなか?」 「ふむ……確かに名前くらいは知っておる。だが、それが如何した?智子は《案山子という貧困街の出》だと言い、まるで悪しきことのように生気を失ったかのような不甲斐ない様をしているが、この澄んだ海の如く青い両の目の輝きは未だ光を失っていないではないか。これ程までに強い眼力の輝きを放つ者は、我子の故郷――湖雨にすら一人とておらぬ」 髏心后帝の尊から鋭い矢の如き視線を此方へと向けられ、尚且つ自信ありげに言われたため、大和はまたしても羞恥から目線を逸らしてしまう。 だが、ここにきても目の前にいる髏心后帝の尊は身分違いであるにも関わらず、砕けた口調で話しかけている大和を決して咎めたりはしない。 「あ、あの____こんなこと聞いたりしちゃいけんのだろうけども……貴方にも兄がいるんやろうか?おら、兄の口から、そげんこと聞いてはおらんかった。ほんに、何故に兄が、おらに嘘をついたんやか分かりゃせんが……そんでも、不安で堪らん……」 「智子は、このような場所で働いてるにも関わらず、案外繊細な心を持っておるの。まあ、安心せい。智子の兄である連翹は悪気あって嘘をついたのではない。弟である智子を守るためについたのだ。我子の実兄である【羅心雀帝の尊】は、危険極まりない存在ゆえ……智子の兄である彼奴はそれによって起こりゆく様々な問題の種が辺りに飛び火せぬように致し方なしに嘘をついたのだ。彼奴は元来から、そういう男。故に、智子の兄は今こうして我子の護衛を担っている」 こくり、と納得したと言わんばかりに頷く大和____。 「我子の兄の名前についている雀という鳥は見た目だけみれば実に可愛らしく、更に保護欲を誘う。だが、実は狂暴な面も兼ね備えているのだ。今や島国である湖雨――いや、それだけでなく《婀慈耶》の王族に仕えている者らは、ずる賢い兄の味方ゆえ弱き存在でしかない智子は数少ない信頼できる者らを引き連れ、ここ異国の地である月桜という国の一つである世逆島へとはるばる訪れた。だが、それ故に信頼できる者らの尊き命を数えきれぬほど失った。それは王位継承者たる資格も力も無き我子が、ずるずると生き続けているせい。我子は、この場にいるべきでは____いや、この世にいるべきではないのだ」 「そ……っ____それは、違いますっ!!」 ふと咄嗟に出てしまった自らの大声に対して、驚愕してしまい慌てて我にかえる。 何故に、こんなにも凄まじい勢いで、出会ったばかりである髏心后帝の尊の言葉を否定したのか――正直なところ、自分でも分かりはしない。 ただ、どうしても髏心后帝の尊の口から放たれた彼の本音を拒否しなければならないような気がした。 頭で考えるのではなく、心でそう感じたのだ。 しかしながら、咄嗟に出てしまった大声のせいで気まずさが漂う。目の前にいる相手の態度を見るに、おそらく此方からこんなにも否定されるとは夢にも思っていなかったのだろう。 「あ、あの……おら……他にも、おめ――いや、あなたに聞きたいことがあるんやけど___」 気まずい沈黙に耐えきれず不意に先刻から、彼に対して気にかかっていたことを尋ねようとするが言葉を呑み込んでしまう。 それというのも、昼間に起こった船着き場での火事に関係する事柄だからだ。無意識のうちに、ちらりちらりと髏心后帝の尊の目元へと視線を向けてしまう。 「いや、やっぱし何でもねえ。おらが勝手に気にしてることだから、気にせんで……っ____」 尋ねたい気持ちをぐっと堪えて、自らの寝所へ戻るべく身を翻し、出口へと向かって歩き始めようとした直後のことだ。 ぐいっと、片腕を掴まれたため大和は足を止めてしまうのだった。

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