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 その日広務は、平日にもかかわらずバーへと足を向けた。昼間、椎名の指によって与えられた官能を持て余していたからだ。 「今夜は北風が強いですね」  カウンターに腰かけるといつものように深山が声をかけてきた。今夜は三月も半ばだと言うのに、まるで冬に戻ったような寒さの夜だった。  一杯目は深山のおすすめをオーダーして、今夜の相手を目で探す。気づけば本当に無意識に、脳裏に浮かぶ人物に似たタイプを捜してしまっていた。  あの長い指でもう一度触れられたら──。 「ホット・カンパリです」  深山の声でハッと意識を戻した。紅茶色の液体が注がれた透明なカップからは温かな湯気がたっている。レモンの輪切りが浮かんでいる様子は本物のレモンティーみたいだ。 「あったかい」  カンパリのほろ苦さと蜂蜜の甘さが程よくて、体の芯からじんわり温まる。昼から燻っていた欲が溶け、霧散してしまうような温かさだ。広務はほっと息を吐きだした。 「葛岡さん、今夜はどなたかをお待ちなんですか?」  広務の前にチョコレートの載った小皿を置かれた。妙に懐かしさを感じる銀色の包み紙のそれを広務は手に取った。 「いや、そんなことないけど……。そんなふうに見える?」 「ええ。まるで心ここにあらず、っていう感じ。妬けちゃうな。葛岡さんみたいな魅力的な人にそんな顔させる相手なんて」  セールストークだろうが、深山がこんなことを口にするのは珍しい。  今夜はなんだか深山に全て見通されている気がする。誰も好きになんかならないなんて言っているくせに、実はいつだって人恋しい。それを慰めるために一晩だけの恋人を探すのだ。 「じゃあ深山くんが今夜つきあってくれる?」  深山のセールストークに乗っかって、広務は皮肉っぽく笑んだ。 「いいですよ」 「え」  絶対に返ってこないであろうと思っていた答えに驚いて、広務は下向きになっていた頭を上げた。 「葛岡さんだったらじゅうぶんに興奮できる気がします」  他の客の耳に届かない程度にひそめられた声は、興味本位か本気なのか、全く真意がわからない。からかわれているのだろうか。広務の方が返答に詰まる。

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