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少し息苦しいくらいにギュッと抱かれると、全身を椎名の体温に包まれる錯覚におちいった。唇のすき間から、ほっ、と淡いため息がもれる。ここしばらくの強がりや疲れが、全身の力とともにゆったりと抜けていくようだ。
「人のあったかさって気持ちいいですよね」
「……」
しばらくぶりの人肌だったのに、情欲の種火はちらとも点らず、ひたすらに癒された。
「そろそろ……離してくれるかな……」
下心のかけらもなくこんなふうに抱かれることに、広務は慣れていない。椎名の指は、今まで抱かれたどの男とも違う優しさで、広務の背を撫でる。
しかし椎名はきっと男が好きなわけではない。ひたすらに親切心からこのような行為をするわけで、その優しさを勘違いしてはいけないのだ。
するすると、椎名の腕が広務を解放した。苦しさからは解き放たれたが、名残惜しさを感じた。
「今夜は久しぶりに遊んできたらどうですか?俺、瑛太くんのことみてますから」
「いや、会社の後輩にそんな世話になるわけにはいかないよ。それに、親が小学生の子供を置いて飲みに行くなんて、非常識だろ」
広務の実家では、母親は夜に外出しない。子供達の食事の世話をし、夫の帰りを起きて待つのだ。遅く帰った父親が「寝ていてよかったのに」と言っていたので、きっと強制的にではなく、母が自主的にそうしていたのだろう。それが母親の役目なのだと広務は思って育った。
瑛太には今一緒に暮らす母親がいない。だったらそのかわりをするのは、広務しかいないのだ。
「だから!俺がいるって言ってるじゃないですか。うちの母親なんか、俺が中学上がったらすぐにママ友達と定期的に飲み会行ってましたよ。その間、小学生の弟の世話は俺がみてました。さすがに中学生の頃よりは、頼りになると思うんだけどな」
広務は驚いた。他の家庭の母親達が、夜に家を留守にして飲み歩いているというのが信じられない。そんな広務の驚きを見透かすように椎名は少し笑った。
「葛岡さんちはお母さん、ママ友と飲みに行ったりしなかったんですか」
「ああ……。母親は子供のことをみていなきゃいけないだろ?」
「古いなあ!うちの母親はママ友と、近所の居酒屋で息抜きしてましたよ。たまに息抜きするから家庭が円満にまわるらしいです。母ちゃんいわく、親が全部我慢してストレスためてるのが一番いけない、って。まあ確かに一理ありますよね。子供だって親にはいつも笑っていてほしいわけだし……、でしょ?瑛太くんだって、そう思ってると思います」
椎名はまた広務の眉間の皺を、ぐいぐいと指先で伸ばす仕草をした。
「それにもし葛岡さんにダウンされて一番困るのは、きっと俺です。一課の仕事も覚え始めたばっかだし、葛岡さんには教えてもらわなきゃいけないことがまだまだたくさんなんですから」
「でも──」
「それとも俺ってそんな信用できませんか?まだまだ若輩者ですけど、俺なりに葛岡さんの、相棒とか──バディ?になれたらいいな、って思ってるんですけど。だからプライベートな連絡先、教えてもらってもいいですか」
やや強引なやつだとは感じたが、広務は椎名とスマートフォンのアドレスを交換した。
「じゃあ葛岡さん!息抜きにレッツゴーですよ!」
「じゃあ……ほんの少し、だけ……。何かあったらすぐ連絡して」
椎名とは昨日今日知り合ったわけではないにしても、自宅の留守を任せるほどの間柄ではない。しかし広務には、椎名がなにかしら裏があって親切にしてくるようには思えなかった。
世の中には善意だけで構成されている人間がいるのかもしれない。だとしたら、それは椎名だと思えるほど、この短い時間で広務は椎名を信用し始めている。もし椎名が詐欺師だとしたら、そうとうの大物詐欺師になるだろう。でも椎名からは嘘や魂胆のようなものは感じなかった。
「日付が変わる前には帰るから」
時計の針がてっぺんをさすまで、まだ二時間以上ある。ほんの僅かな時間でも、子供のことを気にせずに過ごせる時を与えられるということが、骨身にしみるほどありがたい。
「全然気にしないでください。どうせ俺、金曜はいつも夜更かししてテレビ見たりして起きてるんで」
「ん。眠くなったら、俺のベッド使っていいから」
玄関で身支度を整え、広務は申し訳ないのと感謝の混ざった気持ちで椎名に会釈した。
「葛岡さん」
ドアを開けようと手をのばした瞬間、椎名に呼びとめられた。
「ん?」
振り返ると、椎名はじっと広務を見つめていた。何かもの言いたげなその表情に、広務の心臓はドキリと強く鼓動する。
「何……?」
わずかな沈黙が、広務にはやたらと長く感じられた。
椎名はそっと広務の手を握り、持ち上げた。キュッと掴む手に力が込められる。
「葛岡さん、楽しんできてください──」
そういう言葉とは裏腹に、椎名の声音は置いてけぼりを食った子供のような──どこか拗ねた音を感じさせた。
しかしもしそうだったら、椎名から「気晴らしに出かけろ」なんて提案するはずがない。広務は気を取り直し、ドアノブに手をかけた。
「うん、じゃあ、いってきます」
「はい!いってらっしゃい!」
明るく見送る椎名からは、束の間感じた不穏の色は全くなく、やはり気のせいだったのだと広務は思った。
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