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 いつものバーでは今夜も深山(みやま)がシェイカーを振っていた。 「葛岡さん、お久しぶりですね。ここしばらくお顔を見られなくて、寂しかったです」 「ははっ。深山くんのセールストークなんて、超レア」 「ふふ……。本当ですよ」  深山との会話を楽しみながら、広務はモヒートをオーダーした。今日の日中は初夏を思わせる陽気で、何かすっきりとしたものを飲みたくなったのだ。深山が作るモヒートは数種の柑橘類のスライスや、その時期によっては旬のフルーツも入っている。今夜はライムとオレンジのスライスが、広務の目を楽しませてくれた。 「ヒロくん!久しぶりぃ~~」 「藤川さん!」  飲み始めて少し経った頃、タイミングよくオーナーの藤川が店に顔を出した。久しぶりの邂逅に、藤川は広務をギュウギュウ抱きしめた。 「あはは!苦しい!苦しいってば!」 「だってぇ~、嬉しいじゃないの!ヒロくんてば元気にしてた?ちょっと痩せたんじゃあない?」  力強い抱擁から広務を解放すると、藤川は両の手のひらで広務の頬を挟んだ。過剰なスキンシップは藤川なりの愛情の表現であり、広務の脳裏に椎名の顔が浮かんだ。今日はやたらとハグされる日だ。 「ヒロくん、ちゃんとパパしてるのぉ~?無理してない?」  藤川は美容のために手作りしているという、自家製ハニーナッツを広務に振るまいつつ尋ねた。 「無理してないわけじゃないけど──、うわ!これすごく美味しいね!」 「あらそう?パンケーキにかけてもすごく美味しいのよ」  ローストしたナッツをはちみつに漬けただけと藤川は言うが、べらぼうに旨い。駅ビルの食料品店や自然食品を扱うスーパーで時々みかけることのあるハニーナッツの瓶。今度瑛太のために買って帰ってみようか。よくナッツ系の菓子を好んで食べている瑛太は、きっと喜んで食べるはずだ。 「うちの子が好きそう」  広務は無意識にそうつぶやいていた。 「やだあ~~!ヒロくん、しっかりパパになっちゃって!じゃあお土産にひと瓶プレゼントするから、ぼくちゃんにも食べさせてあげて」  藤川はいそいそと、海外ブランドの紙袋にハニーナッツの瓶を入れて広務に手渡すと、他の常連客に呼ばれその場を離れた。  そういえば広務の父も、時々土産を持って帰宅することがあった。それは近所のコンビニで売っているプリンやアイスの時もあれば、職場の同僚と飲みに行った居酒屋でテイクアウトした焼き鳥だったり様々だった。あの時父親は、今の広務と同じように家族の顔を思い浮かべたりしたのだろうか。 「深山くん、そろそろ──」  家で眠っているであろう瑛太の姿と、椎名の笑顔が頭に浮かぶ。なんだか急に帰らねば、という気持ちになり、広務は僅かに腰を浮かせた。あっという間に感じるが、とっくに時刻は二十三時を過ぎている。 「もうお帰りですか?」  いつもなら夜はまだまだこれからで、一夜の相手を選別しつつ飲んでいる頃だ。しかし椎名と約束した通り、日付をまたぐ前に帰宅するつもりなのだ。 「うん。また来るから、あ……」  深山の手がのびてきて、指が広務の手に触れた。藤川からされた親愛のスキンシップではなく、明らかに性的な色味を帯びた接触。 「前に、口説いたの──覚えてますか」  前回来店した際に交わした、言葉遊びのことだろうか。深山の指が広務の手の甲の骨をなぞっていく。 「あれ、半分本気です。今も葛岡さんのこと、あわよくば、って狙ってますから」 「え──」  長めの前髪のすき間からチラリとのぞく、ミステリアスな瞳。神秘的な瞳は妖艶さをまとい、広務を見つめてくる。  いつもの広務ならこの好機を楽しむくらいの余裕はある。一夜の恋を楽しむか、嫌ならスマートに拒絶するテクニックくらい持っている。しかし今の広務は動揺していた。家族が増え──、守るものの存在が、広務を保身的にさせていた。保身が広務を躊躇わせる。 「ふふっ。寂しくなったらいつでも誘ってくださいね」  深山がにっこりと目を細めた。獲物を狙うハンターのようだった目が、いつもの草食動物のような無害な眼差しに変わる。金縛りが解けたかのように緊張が解け、やっと余裕が戻った。 「ありがとう。すごくドキドキした。今夜は人を待たせてるから、また機会があったら、ね」 「ええ。お待ちしています」  広務は大通りに出てタクシーを拾った。まだ終電に間に合う時間ではあったが、一刻も早く家に帰らねばという焦燥に駆られる。  もう瑛太は夢の中で、ちょっとやそっとのことでは目を覚まさないだろう。それでもその寝顔を見て安心したい、と感じる。  ちゃんといい子で寝ているだろうか。  瑛太と、──同時にやはり、椎名の顔を思い浮かべた。

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