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運動会から一ヶ月後の、梅雨の金曜日。朝からしとしとと細かい雨が降り続き、灰色の雲は湿気を含んでいかにも重そうだ。
今日は週末の金曜だというのに、椎名が珍しく定時に退社できた。広務と椎名は同じ駅から通勤しているものの、一緒に帰宅することはほぼない。小学生の子供を持つ広務がなるべく定時で仕事を終えられるよう、椎名が広務の代役を務めているからだ。
打ち合わせが長引きそうな取引先への訪問などは椎名が、その代わり広務は椎名の営業補佐的役割を受け持つ。家のことなど気にせずバリバリと仕事をしたいと思わないわけではないが、瑛太が中学生になるまでは仕方がないと割り切っている。
「葛岡さんと一緒に帰れるなんてラッキーだなあ」
にこにこ微笑む椎名につられ、広務も少し微笑んだ。雨は霧雨ながらも一向にやむことなく、地面のあちこちに水たまりが出来ている。いつもならうっとおしいこんな天気も、椎名と傘を並べて歩けばちっとも気にならない。
椎名はどこにも寄らず、広務と駅に向かうようだ。それなら夕飯に誘ってみようかと思った。普通の先輩後輩なら居酒屋などに行き仲を深めるところだけど、広務はそうもいかない。だったら自宅に誘ってみてもいいんじゃないか。
最近ほぼ毎日自炊を余儀なくされているため、広務の料理の腕は徐々に上がってきている。今夜は豚肉の生姜焼きを作る予定で、昨日近所のスーパーで『お買い得生姜焼き用肉大量パック』を買った。椎名一人増えてもまだ余るほどの量があった。
「椎名くんさ──」
そう声をかけた時、スーツのポケットでスマートフォンが震えた。
最近は瑛太からいつ連絡が来ても気づけるよう、常にスマホを持ち歩いている。この時間帯に電話をかけてくるのは、だいたいが瑛太からだ。きっと瑛太が「お腹すいたんだけど」などという、他愛ない内容の電話をかけてきたのだと思った。
「ちょっとごめん。電話が──」
スマホの画面を確認したとたん、ドキッと嫌な予感がした。発信者は「小学校」。つまり瑛太の学校からだ。
「もしもし、葛岡さんでしょうか。私──」
若い声の男は瑛太の担任の名前を名乗った。
「瑛太に何かありましたか」
前回は嘔吐での呼び出しだった。また吐いたか、怪我でもしたか。しかしすでに下校時刻をとっくに過ぎた午後六時。何もなければ瑛太は家でテレビでも見ているはずだ。
「実は今日葛岡さん、他のクラスの男子と衝突しまして」
「衝突?」
最近の小学校では男子も女子も苗字に「さん」付けで名前を呼ばれる。「葛岡さん」と瑛太のことを呼ばれるとまるで自分に呼びかけられているようで、その上「衝突」という遠回しの表現が二重になって広務の不安を煽った。
「他クラスの男子三人に向かって、殴りかかったと言いますか──」
「瑛太が!?」
驚きで大声が出た。帰宅時間のオフィス街、ちらりと帰宅途中のサラリーマンがこちらを振り返った。
「あのっ……、殴りかかったというと、その、瑛太が一人で三人に向けて殴ったということでしょうか?」
人の邪魔にならないよう歩道の端により、広務は声をひそめた。椎名も広務について端によった。
「いえ、葛岡さんともう一人です。二対三で取っ組み合いとでもいいますか……。向こうも葛岡さん達にやり返してきましたので、ケンカ両成敗、お互いに悪いということで話し合いをしたのですが」
「え……、でも、なんで瑛太はそんなことをしたんでしょうか……」
瑛太はすぐふざけるお調子者だが、人に暴力を振るう子ではない。いや──、そんな子ではない、と思っていた。無条件に広務は、「うちの子は良い子」だと信じ込んでいたのだ。
「それがですね、何度聞いてもケンカの原因を言わないんです」
「え……?」
「現場を見ていた生徒に話を聞くと、葛岡さんともう一人が他クラスの男子三人と喋っていて、突然殴りかかったと言うんです。他クラスの男子に理由を聞いても、急に殴りかかってきたというばかりで……。お父さん、申し訳ないのですが、瑛太さんとお話してみていただいてもよろしいでしょうか」
「え、ええ、もちろん……」
通話を終えた広務は、思わず隣にいる椎名を縋るように見た。
なぜ瑛太は暴力なんて振るったのか、瑛太の気持ちがわからない。何もわからずとも広務には親の責任がのしかかる。
「し、椎名くん、どうしよ……。瑛太が人を殴ったって──」
「殴った?」
「瑛太、先生にも殴った理由を言わないらしくて……。ああ……、よくワイドショーなんかでもあるよね。猟奇的な事件を起こした犯人でも、親は我が子がそんなことやってのけるなんて思いもしなかったって──」
「は?」
「真面目な大人しい子供が大人になって恐ろしい事件の犯人になったり……。まさか、まさかうちの子が、って……。どうしよう!まさか瑛太が暴力振るうなんて──!」
広務の頭の中は、今まで余所事だった猟奇殺人犯のことでいっぱいになった。
うちの瑛太も大人になったらそうなってしまうのか。ワイドショーで「小学生の頃から殴り合いをする暴力的な子でした」などと、モザイクのかかった同級生に証言されてしまうのか。
だったらそれは複雑な家庭環境のせいか。片親で、母親は再婚して、父親はゲイで。元はと言えば全て自分のせいじゃないか──!
冷静になれば、自分の思考がかなりぶっ飛んでいると理解できる。しかし今の広務は目の前が真っ暗で、脳内を瑛太の転落人生が走馬灯のように過ぎっていく。
「ごめん……!俺、先に帰る……!」
「葛岡さん!?」
タイミングよく通りかかった空車のタクシーを拾い、広務は椎名を置き去りにして乗り込んだ。帰る駅は同じなのだから一緒に椎名も乗せてやればよかった、と気がついたのは、広務のマンションが見えてきた頃だった。そんなことにも気がつかないほどに広務は動揺していた。
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