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椎名は広務の手首を掴むと通りに出た。ぐいぐいと有無を言わさず引っ張られ、広務は慌てて椎名を追うように歩く。
「ねえっ、抱くって──」
その意味を椎名は理解しているのだろうか。男同士がどう抱き合うのかわかっているのだろうか。
そもそもなぜ椎名はこの場に現れたのか。広務のセクシャリティを、椎名はなぜすんなり受けいれているのか。
わけのわからないことばかりがぐるぐると頭を巡り、広務は椎名の背中を見つめるのが精いっぱいだ。
「ここ、寄りますからね!」
急ブレーキを踏むように、椎名は突然歩みを止めた。路面に張り出すように様々な商品の積まれた棚が並ぶそこは、ドラッグストアだ。
椎名は掴んでいた手を離すと、ずいずいと店内を奥に進んだ。ひとつひとつ通路を確認しながら進み、椎名は目当ての棚の前で止まった。
コンドームとローションを掴むと、またスタスタとレジへ向かう。一瞬の迷いもない姿勢は、惚れ惚れするほど潔い。
「お願いします」
椎名は若い女性のレジスタッフにさっと商品を差し出した。差し出された女の子も慣れているのか、ちらりと広務の方を見たものの顔色ひとつ変えず会計を進める。広務ただ一人が、初心 な中高生みたいにどぎまぎしていた。
レジ袋を片手に椎名は、大通りでタクシーを拾った。広務にしてみれば今日三度目のタクシーだった。
無言で後部座席に並んで座る。なんとなく、広務が何を言っても椎名は今夜自分を抱くのだろう、と思った。
椎名は「こちら側」の人間なのだろうか。飼い主に忠実な大型犬のような、信頼の情を向けられているのは感じていた。でも以前、キスをした後に椎名が発した「失敗した」という言葉は、今も広務の胸に小さく刺さり続けている。
車窓はどんどん見慣れた風景を映しだし、ついに広務の自宅近くでタクシーは停まった。
「葛岡さん、こっち」
「あ、うん……」
広務のマンションを通り過ぎ、数分歩いたところに椎名のマンションはあった。
オートロックのないエントランスを抜けるとすぐにいくつもの銀色のポストが並んでいる。そこを進むとエレベーターの箱があり、広務は椎名とそれに乗り込んだ。
さっきと同じく、広務は流されるままついてきた。でも深山の時には感じなかった動悸、焦り、顔の火照り。症状だけ並べれば初期の更年期みたいだけれど、そうなる理由はわかっている。
相手が椎名だからだ。
「椎名くん……、その……」
「椎名でいいですよ」
「え?」
「さっきキスした時、椎名って呼び捨てしたじゃないですか。そっちの方が楽でしょ」
社内のコンプライアンスでは、後輩や部下の名前を呼び捨てするのはパワハラ案件だと注意喚起されている。それでも信頼関係のある先輩後輩や上司と部下の間では、親しみを込めて呼び捨てしていることもあった。
「しいな……」
「はい」
改めて言うと、ものすごく恥ずかしい気がする。しかし椎名があまりにも嬉しそうに微笑むので、広務は恥ずかしさをこらえた。
尋ねたいこと、確認したいこと、椎名と話すことはたくさんあるはずなのに言葉にならない。そのかわり、広務は椎名の手をそっと握った。
「──広務さん」
エレベーターが停まりドアが開いた瞬間、椎名がいつもと違う呼び方で広務を呼んだ。じわっと握る手に汗が滲む。
「そう呼んでもいいですか。二人きりの時は……」
椎名が広務の手をキュッときつく握った。それだけのしぐさで、椎名の緊張が伝わってくる。
「……ん」
椎名の部屋の前で、広務は小さく頷いた。まるでどこかで読んだ、ありきたりな恋愛マンガみたいだと思った。ありきたりだけど、広務には初めての経験だった。
セックスは何度も、何人ともしたことがある。でもこんなふうに、──まるで初恋みたいに扱われたことは一度だってなかった。
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