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 部屋に入るなり、黄瀬陽(きせよう)の母親は膝をつき再び頭を下げた。 「この度は、陽のことで大変ご迷惑をおかけしました」  広務は慌てて頭を上げさせ、親子をソファーに座るよう促した。陽の母は菓子折を持参していた。広務も見覚えのある店のロゴは商店街にあるカフェで、レジ付近にユニークな顔型のクッキーが贈答用で売っていたのを思い出した。 「あの……、うちの瑛太が何かしましたか?」  こんなふうに礼を言われる覚えはないが、ふと、昨日のケンカの原因が陽にあるように感じた。 「昨日瑛太くんと皐月くんが学校でケンカしたと、小川さんから連絡が来まして……。何か知らないかと陽に確認したんです。陽は、ケンカした事自体は知らなかったのですが、ただ他のクラスの生徒にからかわれたと言って──」 「からかわれた?陽くんが、ですか?」  広務は首を傾げた。陽は瑛太に比べればもの静かな雰囲気を漂わせているが、なぜからかわれることがあるのだろう。瑛太より遙かに賢そうに見える顔立ち。同級生にからかわれたとことろで軽くスルーしてしまいそうな、そんな大人っぽささえ感じる。 「実は、陽は身体的な障害があるんです」 「え?」  広務は改めて陽を見つめた。陽は瑛太より背も高いし体つきもしっかりしている。太っているわけでも痩せすぎているわけでもなく、しっかりした足取りでここまで歩いていた。外見的に不自由なところはなさそうに見える。 「俺、耳が片っぽ聞こえないんだ。それを昨日他のクラスの子に、見せろって言われて」 「耳が……?」  陽はひとつ頷くと、額から片側の耳へ向けて長くなっている髪をそっと持ち上げた。初めて会った時から、小学生にしてはおしゃれなアシンメトリーな髪型をしていると思っていた。まさかそれが不自由なところを隠すためだったとは思いもよらなかったのだ。  ぱっと見ただけでは、陽の障害は全くわからない。しかし言われてよくよく見ると、鼓膜へ通じる穴だけがなかった。 「生まれつき外耳道が塞がっているんです。保育園から一緒のお友だちはみんな知っているんですけど、小学校に上がってたくさんの同級生が出来て……。知らない子が噂で聞いたんでしょうね。見せてみろ、って言われたらしくて」  陽の母は一瞬悔しそうに眉を顰めた。しかし見間違いかと疑うほど一瞬のことで、すぐに陽に気がつかれないよう穏やかな表情を取り戻した。 「多分それが原因でケンカしたんだと思う。だって皐月も瑛太も、理由もないのにケンカしたりしない……」  最初、陽は表情の乏しい子かと思った。それくらい淡々と自分のことは語る。しかし皐月と瑛太の名前を口にすると、陽は顔をクシャクシャにした。滑らかな頬をぽろぽろ涙が伝い落ちた。 「そう言えば瑛太は皐月くんちにいるんだけど、陽くんは今日皐月くんと遊ぶ?」  広務は場の雰囲気を変えようと、努めて明るく語りかけた。陽はうかがうような視線を母親に向ける。母親が微笑んで頷くのを見て、広務は冷蔵庫に向かった。  椎名の家から帰る途中に寄ったスーパーで、アイスクリームを買った。ひとつ三百円近くするアイスクリームは、瑛太の大好物なのだ。  瑛太と仲直りをするために、広務は多数あるフレーバーを全種類購入した。たかがアイスクリームに結構な金額を使ってしまったが、瑛太の喜ぶ顔を見たいと思った。 「これ、皐月くんちにおつかいしてもらっていいかな?瑛太のお父さんからお世話になったお礼、って。たくさんあるから、陽くんも皐月くんちで食べな?」  スーパーのビニール袋にアイスクリームを詰めて、陽に持たせた。 「ほら、溶けないうちに」  そう言って急かすと、陽は大きく頷いて玄関に向かう。 「じゃあ私もこれで……」  辞去しようとする陽の母を玄関先まで見送る僅かな間に、とっくに陽の姿はなくなっていた。 「陽くんはお母さんに何でも話してくれるんですね」  無意識に広務はそうこぼしてしまった。陽の母は不思議そうな顔で見返した。 「あっ……。ええと、ほらうちって、つい最近親子になったようなものだから……。だから瑛太は何も教えてくれなかったのかな、って」  広務が吐露すると、陽の母は静かに首を振った。 「うちもそうですよ。もう何でも話してくれる歳ではないですし」 「そんなものですか?」 「ええ、よっぽど困ったことになれば、向こうから話してきますよ」  陽の母の笑みは、母親特有の余裕のようなものが滲んでいた。 「やっぱり『お母さん』にはかなわないですね」  マンションのエントランスまで見送り、広務は頭を掻いた。陽の母はそんな広務をじっと見つめ、困ったように笑う。そしてゆっくりと言葉を発した。 「陽の実の母親は別にいるんです」 「えっ──」  広務は激しく驚いた。驚きすぎて、何と言ったらいいかわからない。傍目には親子以外の何者にも見えない陽とその母親。当たり前の親子だと思って疑いもしなかった。 「陽は主人の妹の子供です。ちょっとわけがあって、私達が養子として引き取りました」 「あ……、そうなんですね」  愚痴じみたことを言ってしまい、広務は内心で恥じた。父親はどう頑張っても母親にはかなわない、まるでそんな言い方をしてしまった、と自らを振り返る。羞恥と後悔で、頭から湯気が出そうな気分だ。 「五歳の時に引き取って、一生懸命母親になろうとしました。親ってなろうと思ってなれるものじゃありませんでしたが……。私は陽を自分の子同様に大事に思っています。それが一緒にいる時間に比例して、陽に伝わればいいなと思っています」  広務は頷くしかなかった。自分と瑛太の間には揺るがない血の絆がある。だから瑛太は広務を「父」と呼んでくれるし、広務も瑛太を愛している。  血の絆に甘えずに、瑛太にこの気持ちが伝わるよう日々を過ごさなければならない。広務は改めてそう思った。  自分達の間には空白の時間がある。お互いにいろいろと戸惑う事もあるだろう。だけどお互いを理解しあって徐々に親子になっていくのだ。  目がさめる思いだった。 「頑張って」  陽の母からエールをもらい、これから本当の親子になっていくのだと広務は心に誓った。

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