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 夕方五時になると、小学校から「家路」のメロディが聞こえてくる。広務が子供のころから全く変わらない帰宅時間の知らせにノスタルジーを感じつつ、皐月の家へと歩を進めた。 「おーい!とーちゃーーん!ここだよー!」  だいたいの場所を皐月の母親に教えてもらっていたのだが、玄関前で瑛太が手を振っていたので迷うことなくたどり着けた。 「瑛太」  広務が手を上げると、瑛太は腕がちぎれそうなほど振り返す。何がそんなに嬉しいのか尋ねたいくらいのニコニコ顔で、広務をずっと見ている。 「どうもお世話になりました」  広務が皐月の母親に頭を下げると、一人前に瑛太もぺこりとお辞儀する。陽から一部始終を聞いていたのだろう、皐月の母は瑛太の頭をなでくりまわすと「またいつでも泊まりにおいで」と言った。  こんなふうに、瑛太と休日に並んで歩くことは稀だ。土曜も日曜も瑛太は友達と遊ぶ約束をしていて、広務と出かけるなんてことはない。「どっか行く?」と聞いても「だれそれくんと遊ぶ約束してる」と面倒くさそうに答えるのだ。  それでも一緒に歩く瑛太は嬉しそうで、広務は思わず抱きしめたくなった。 「えっ!何!?」  両腕を瑛太に回すと、思い切り迷惑そうな顔をして避けられた。 「え、だめ?」  尋ねると、「ちょっと外ではやめて」と返ってきた。じゃあ家の中ではいいのだろうか。小五ともなると、人の目が気になる歳なのだろう。広務は伸ばしていた腕を下ろした。 「陽くんから聞いたんだけど、本当?」  同級生に殴りかかったのはよくないが、瑛太の友情を褒めてやりたい。やっぱりうちの瑛太はいいこだった。 「は?何が?」 「だから、陽くんをからかった相手とケンカしたって──」  なぜか瑛太は他所を見て、しらばっくれている。 「最初からそう言えばよかったのに。先生に聞かれた時、あいつらが陽くんに嫌なことしたってチクっちゃえばよかったじゃん」  広務はあえて軽い調子で尋ねた。きっと瑛太は言い辛く感じているのだろうし、広務がいかにも気にしてませんよというふうに尋ねれば、その重い口が開くと思ったのだ。 「だってさ」 「うん?」  広務の思わく通り、天岩戸の如く頑丈に閉じられていた瑛太の口が徐々に開いた。無理に聞き出すのではなく、瑛太から話してくれるのを広務は辛抱強く待つ。 「だって……、先生に言うのは簡単だけど、ヨーチンが嫌な思いするじゃんか」 「そう?」 「そうだよ。ヨーチンは自分の耳が片方しか聞こえないことを、それが自分の普通だって言ってた。だから俺らもヨーチンが特別だなんて思ってないんだ。ただヨーチンが困らないように、できるだけ聞こえる耳の方向から話しかけたりはするけど」  瑛太が真面目に話す様子を、広務は頼もしい思いで見つめた。まだまだ子供にしか見えないこの体の中で、こんなにも友達を思う心が生きているのだ。 「そうだね。友達が困っているなら、それを助けるのは友達として当たり前だよね」  広務の言葉に瑛太は小さく頷いた。 「ヨーチンは特別扱いされたくないんだ。だけど先生に言ったら、学級議題にされちゃうから。困ったこととか事件とかあったらみんなで話し合わなきゃいけないんだ」 「へえ……」 「俺がヨーチンだったら嫌だ。耳のことでからかわれて、そのことをクラスで話し合いされるなんて。そんなのめっちゃ嫌だ!!」 「瑛太……!」  今度こそ広務は人目も気にせず、瑛太を抱きしめた。抱きしめずにはいられなかった。  こんなちっちゃい頭の中で、たくさんたくさん考えている。人を思いやる心が育っている。  やっぱりうちの瑛太はいいこだ。こんな気持ちの優しい子見たことない。  親バカだと笑われても呆れられても、これからはこの子を一番に信じていこう──そう思った。

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