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 本社での一年の研修の後、椎名は神奈川のの営業所に配属された。  希望の職種でなかったものの、腐ることなく働けたのは、あの日の広務のおかげだと思う。大きな会社にはたくさんの職種があり、誰もが希望の職に就けるわけではない。  愚痴を言っても始まらない。与えられた仕事を懸命に熟すのが、社員としての努めなのではないか。  椎名の努力が認められたのか、たった一年で本社勤務を命ぜられた。ただ本社に戻れたものの、また希望の商品開発の仕事には就けなかった。  しかし憧れの広務と同じ営業部で働けることを嬉しく思った。  本社に戻ってすぐの頃、同期の飲み会に誘われた。  メンバーの中には入社早々愚痴って広務に叱られたやつもいた。今では一人前のサラリーマンになり、アプリ開発に尽力している。お前新人の頃葛岡さんにめっちゃキレられてたよな、などと思い出話に花が咲いた。  椎名は二次会までつきあい、三次会に向かう仲間と別れを告げた。東京の夜は多くの人が出歩いていて、とても煌びやかに見える。椎名はそんな夜の賑わいが好きだった。  酔い覚ましに、ぶらりと遠回りして駅に向かうことにした。  車の通る大通りに出ると、向こう側の歩道にコンビニの明かりをみつけた。喉が渇いたように気がして、信号を渡りコンビニで水を買った。  ふとコンビニの横にある小道の奥を見た。 「ばいば~い、また来てね~」  キャバクラかガールズバーかよくわからないが、飲み屋の女の子が客を見送っている。すごくスタイルの良い子で、モデルのように背が高い。しかし酒焼けのせいか、声がひどくハスキーだった。  パチンとその子と目が合った。にこりと微笑まれると、男ならみんな良い気分になるだろう。 「お兄さん、寄ってかない?」  そう誘われ、店の看板を見た椎名は驚いた。その店はニューハーフパブだった。  だから声が低いのか、と納得する。しかし元男と言われても疑うほどに、その子はとても可愛かった。  そういえばこの辺りに、そういう界隈があると聞いたことがあった。  ふうん、本当にあるんだなあ──と椎名は観光客のようにもの珍しげに見て歩いた。  確かにそう意識して見れば、男連れで歩く二人の距離が近いような気がする。  なんだか異世界に迷い込んだ気分で、椎名はふわふわと歩いた。少し先にある、普通のバーのような店の扉が開く。  出てきた人物を見て、椎名の心臓は止まりかけた。  憧れの広務が男に肩を抱かれ、店から出てきたのだ。  椎名は呆然と、広務と男を見つめた。  広務は男と楽しげに話していて、椎名のことなど気がつかない様子──というか、課の違う自分のことなど広務は存在自体、認識していないかもしれない。  ギラギラと輝くネオン街の中、広務と男は歩き出した。  もしかして、広務は同性愛者なのだろうか。しかしすぐ、思い込みはよくないと思い直す。  肩を抱かれていると言っても、いわゆる『友達抱き』というやつかもしれないのだから。  椎名は広務達と一定の距離を空け、二人の後を追った。  追うというか、進む方角が同じなだけだ。そう自分に言い訳するくらいに、椎名は動揺していた。  ふいっと二人が路地に入った。後を追っていた椎名は、このまま二人についていくか逡巡した。  いや──尾行のまねごとはよくない。椎名は大人しく駅へ向かうことに決めた。  しかし路地が近づくにつれ、やはり広務のことが気になる。二人が消えた狭い路地の入り口にさしかかると、椎名は暗い道の奥を凝視した。  ギラギラのネオン通りと反して、恐ろしく薄暗い。しかしじっと目を凝らすと、薄闇の中に広務達の姿が確認できた。  闇の中、広務と男の顔が引き寄せられるように近づいていく。二人が何をしているか、そのシルエットだけでわかってしまった。  ──キスしてる……!  心の底からおったまげた。飲み会のノリとか罰ゲームなどではなく、広務達から淫靡な雰囲気が漂ってくる。  バックバクに脈打つ心臓を抱え、椎名は広務から目が離すことができなくなった。  角度を変え口づけを続ける様子は、確実に深いキスを交わしているように見える。広務は相手の首に腕をまわし、もっと──と強請るような雰囲気を醸しだしていた。  相手の両手が広務の尻にまわる。ズボンの上から丸みを鷲づかみにし、捏ねるように撫でまわす。  広務は我慢できないかのように、相手と体を密着させた。  椎名は息をするのも忘れ、その様子に見入った。するとズクンと下半身が疼き始めた。 「え……、あれ……?」  ドクドクと下肢に血が集まっていく。  広務の艶っぽい様子をのぞき見て、椎名は完全に興奮していた。  見られているとは知らない広務達は、夜の闇に消えていった。きっとこの後二人は──、そう思うと胸が焦げるような、何とも言えない気分になる。  椎名はそのまま自宅へと向かったが、歩く間も電車に乗っている間も、さっきみた広務の姿が脳裏に焼きついていた。  自室のベッドで目を閉じると、まぶたの裏に広務の顔が浮かんだ。  妄想の広務は白い肌を露わにし、椎名を誘うかのように椎名へ向けて腕をのばす。  椎名は妄想に夢中になった。頭の中で、ありとあらゆる痴態を広務に演じさせた。  その夜、椎名は初めて男の妄想で抜いた。憧れの先輩で展開する妄想は、ものすごい罪悪感だった。  しかしそれを上まわる興奮があった。  妄想の広務は「椎名」と名前を呼ぶ。しかし現実の広務は、椎名のことなど忘れているかもしれない。同じ営業部に存在していることすら知らないかもしれない。  そう思うと酷く切ない。もっと自分を彼に見て欲しい。 「どうしよう……、好きになっちゃったかも」  憧れが恋愛感情に変化するのは、あまりにも簡単だった。  新入社員だったあの日──社食で広務と出会ったあの時、もしかしたら椎名は一目ぼれをしていたのかもしれない。  そう思うと全てが腑に落ちる気がした。だって二年もの間、広務のことを忘れることはなかったのだから。  ずっと広務に並ぶことのできる男になりたい、そう思い、仕事に精を出してきた。椎名にとって広務とは、気軽に近づくことのできないアイドルのような憧れの存在だった。  それが──だ。  広務が同性もいけるとわかったとたん、ものすごくそれを喜ぶ感情がある。広務と一緒にいた男に、激しい嫉妬を感じている。  自分も広務とキスをしたい、そう思っている。 「やっ……べー……。まじで好きだろ……」  思いを言葉にする毎に、どんどん広務を好きになっていく気がした。

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