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「え──」
「父ちゃん、男の人が好きなんだろ」
いつから──いったいいつからそれを知っていたのか。
自分はそれを否定するべきだ、そう思ったが、広務は言葉が出なかった。
香子と瑛太から離れると決めた理由、それは──瑛太に嘘を吐きながら家族ごっこなんてできないと思ったからだ。
いつだって瑛太に誠実でありたい、そう信じて別れたのに、いざ瑛太の口からそのことをつきつけられると、簡単に認めることができない。
「なんで」
ようよう出た言葉はそれだけだった。
広務が瑛太に死ぬまで黙っておきたかったこと。黙っておくのと嘘を吐くことは、似ているようで別だ。
ずるいとは思ったが、広務は真実を黙秘することで瑛太の父親であり続けた。
「おじさんとおばさんが母ちゃんと話してるのを聞いた。俺が小学生になったばっかの頃。おばさんが母ちゃんに、父ちゃんの悪口みたいなこと言ってた。その中で、父ちゃんが男の人しか好きになれないんだって言ってて」
瑛太の瞳が広務を映す。そこには真偽を問いただしたいという心の揺れが、眼差しに混じっていた。
「ごめんな……」
「何で謝るの?」
「俺が『普通』だったら……、瑛太にこんな苦しい思いさせずにすんだのに……」
広務の声は震えていた。全て自分が悪いのだ。香子も瑛太も香子の兄夫婦も、誰一人悪くない。
「泣くなよ」
「だって……」
いつだって保護してあげなければいけなかった瑛太が、今は広務を慰めるほどに成長している。着実に親離れを始めているのだ。
「ねえ、父ちゃん。LGBTの人の割合って意外と多いの知ってた?十三人に一人、もしかしたらもっと。一クラスに三人はいるってことだろ」
広務もそれは知っていた。ニュースか何かで見たように思う。
でもそれは画面の向こうの話だ。対岸の話、だから誰もみな落ち着いていられるのだ。
自分の身近な人、息子、娘、親、家族がそうだとわかった時、動揺せずにそれを受け止められる人がどれだけいるのだろう。
「保健室にさ、色んな本があるんだ。障がいの本、体の仕組みの本、細菌の本、あと……LGBTの本。父ちゃん、普通って何?片耳に障がいがあるヨーチンは普通じゃないの?特別学級のみんなは普通じゃない?男の人が好きな父ちゃんは普通じゃないの?」
「瑛太……」
「違うよ、父ちゃん。普通とか普通じゃないとか、そんなの人に使う言葉じゃないんだって。人にはそれぞれ個性があるって──それを認め合って助け合うのが、社会なんだよ」
授業でそう習った、と瑛太はネタばらしをしてはにかんだ。
広務は涙に塗れたまま、瑛太をきつく抱きしめた。いつもは嫌がる瑛太だが、今はされるがままでいてくれる。
首筋から、赤ちゃんの頃と変わらない、ミルクみたいな甘い匂いがした。
「でも父ちゃんはそのことを反省してる、って聞いたんだ」
「……お母さんから?」
「そう。父ちゃんは自分が原因で離婚したことを反省してる。だから一生ひとりぼっちで生きていく、って母ちゃんに言ったって……」
離婚する際、確かに香子にそう告げた。全ては自分の内側を直視できなかった弱さが招いたことだ。
一生ひとりで生きるということは、一生この罪を忘れないよう、自分で嵌めた枷のつもりだった。ただその枷は、椎名という大事な人により、あっさり取り外されてしまった。
許された気になっていたのだ。
瑛太が広務の元に来てくれて、自分の罪を許されたつもりになっていた。
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