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瑛太が中学生になったら買ってほしいもの。それは『スマートフォン』だ。
鍵っ子の瑛太は、小学生の頃から携帯電話を持たされていた。しかしそれはキッズケータイで、登録してある番号にしかかけられないし、受けることもできない。ついでにゲームアプリをダウンロードできなければ、ラインも使うことができなかった。
六年生になった頃からちらほらと、クラスメイトの中にスマホユーザーが現れだした。そのだいたいが女子だったが、十二歳の誕生日プレゼントにスマートフォンを買ってもらうのがお決まりだった。
テレビで楽しそうなゲームアプリのCMが流れる。やりたいなあ、と思ってもダウンロードするには広務のタブレットかスマホがないと無理だ。
いちいち親に断りを入れてゲームなんかしたくない。だからずっと自分専用のスマホが欲しいとねだり続けていたのだ。
小学校を卒業した三月、ついにキッズケータイからスマートフォンに変えてもらえることになった。
どの機種がいいとか全然わからないけれど、とにかくラインとゲームができれば何でもいい。
三月最後の土曜日、瑛太は広務と一緒に駅前の携帯ショップへ行った。学生に人気だという最新機種を、ついに瑛太は手に入れた。
「知らない電話番号からの電話には出ない。詐欺メールのアドレスは開かない。添付ファイルも開かない。SNSで知らない人と勝手に会う約束をしない」
なんたらかんたら、山のように広務に注意されたけど、そんなの小学生だって常識として知っている。学校に携帯電話の会社の人が来て、六年生対象にスマートフォンとインターネットの危険について話してくれる授業もあるくらいだ。
心配性の広務は、無料のアクセス制限サービスに登録した。広務はその制限を、中学卒業まで解除しないつもりらしい。
何となくかっこ悪い気がするが、スマートフォン自体を取り上げられては堪らないので、瑛太は文句を言わず黙っておいた。
瑛太は買ったばかりのスマートフォンを早く皐月達に見せようと、住宅街の中に入った。
桜は満開の時期を迎えており、はらはらと幾枚かの花びらが頭上から舞い落ちる。瑛太が髪の毛についたそれを振り払おうとした時だった。
瑛太の住むマンションよりも幾分か小ぶりな建物──単身者向けのマンションのエントランスから、よく見知った大人が出てきた。
「あ……」
瑛太の心臓が、罪悪感にキュッと縮んだ。落雷にでも打たれたかのように、その場に立ちすくむ。
「やあ」
身動きのとれなくなった瑛太に、椎名はすぐさま気がついた。向けられる笑顔は、以前と全く変わりない。
そう、瑛太のわがままで父親と椎名の恋を終わらせるその前と、彼の笑顔は全く同じだったのだ。
「では、後日敷金は振り込みでお返し致しますので」
椎名の背後から、背広姿の男性が現れた。その人は鍵の束をじゃらつかせながら、鞄へと仕舞う。
「どうも長い間お世話になりました」
「いえ、こちらこそ、長く借りていただきありがとうございいます」
背広の男性は椎名へ会釈し、商店街の方へと立ち去った。
「しーな……、今の……」
「ああ、不動産屋さん」
「……引っ越すの?」
瑛太の問いかけに、椎名は笑って微かにうなずいた。
「ごめんなさい」
椎名のことは嫌いじゃない。いや、年上の兄弟がいない瑛太にとって、彼は歳の離れた兄のような存在でもある。
出会った当初は父親の会社の人間くらいの位置づけだったが、交流を深めるうちに瑛太は椎名の人間性を好ましく思うようになった。影で父親の悪口を言っていた母方の親戚よりも、信頼のおける人物だ。
でもその信頼が変化したのは、クリスマス間際のことだった。
瑛太と広務の食卓に、椎名を招くことが間々あった。鍋料理などは父親と二人きりでつつくより、椎名が加わってくれたほうが楽しいからだ。
その日も、いつもより一人分賑やかさが増した夕食を終え、テレビを見ながら瑛太はいつの間にか夢うつつの中にいた。
「椎名、今日はありがとう。瑛太にプレゼントまで……」
その夜、椎名は瑛太へ少し早いクリスマスプレゼントをくれた。発売して間もないゲームのソフトだった。
「いえ、結局俺もたっぷり遊んじゃったし……。それより……、二十四日は一緒にいてもらえるんですよね」
椎名の囁き声は、今まで瑛太が聞いたことのない甘さを含んでいた。まるでテレビの恋愛ドラマみたいだ。恋人同士が愛を囁くシーン、そんな声音で椎名は広務に話しかけている。
実はそれまでに「あれ?」と思うことは度々あった。
会社の先輩後輩にしては、家に招いたり、一緒に出かけたりする頻度が高いように思われた。でもそれは、父子家庭で瑛太が寂しい思いをしないようにという、大人達の配慮なのかと思っていた。
椎名がいれば広務はとても楽しそうで、椎名も同じようだった。もちろん、瑛太も楽しい。
でも時々絡む二人のまなざしが、まるで恋人同士のように瑛太には映ることがあった。
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