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甘ったるい空気の中、ピコン、と広務のスマホが着信を告げた。瑛太からのメッセージだった。
「なんですか?」
画面を確認していると、椎名の腕が広務を包んだ。広務は甘えるように、椎名の胸に体を預けた。
「ふっ……。『お楽しみのところ申し訳ありませんが、家の鍵を持っていませんでした』だって。なんで敬語なんだろう」
妙に他人行儀な文章に、広務は頬を緩めた。
「そりゃ、俺らが盛り上がってるのをわかってるからでしょ」
椎名もおかしそうに小さく笑う。
「えっと、明日八時半に出かけるからいったん家に帰りたいんだって。てことは、早く帰って家の鍵を開けてくれってことか」
大きくなったと思っていても、まだまだ手のかかるところもある。広務はそれが嬉しい。父親業をもう少し続けさせてもらえることが、瑛太が広務に与えてくれる、一番の親孝行なのだ。
「なんだか妬けちゃうな……」
広務の髪に口づけながら、椎名が本気ともつかない声音で囁いた。
「妬ける?誰に……まさか瑛太に!?」
広務は驚いて椎名を見上げた。
口元には緩い笑みをたたえつつ、広務を見る椎名の瞳には、半分本気の色が滲んでいた。
「椎名。瑛太に嫉妬してもだめだよ?」
「……はい。でももし、崖っぷちで俺と瑛太くんが──」
「うん、瑛太を助ける」
広務は最後まで聞かずとも、きっぱり答えた。
広務にとって大切なのは、一も二もなく瑛太なのだ。
「知ってましたけど……!」
椎名は広務を抱きしめる力を強め、拗ねた。
「でも少しくらい迷ってほしかったな……」
「うん、ごめん。でも俺にとって、瑛太は『絶対』なんだよ」
広務はもう一度、ごめん、と謝った。
きっと椎名にはこれからも、瑛太を優先するがあまりに寂しい思いをさせてしまうだろう。それを想像すると、切なくなる。
「はい……。でもそんな広務さんが好きです。お父さんとして頑張ってる広務さんだから、離れていてもずっと尊敬してたし、好きでいられたんだと思います」
「椎名……」
「ただ、もし何か困ったら、瑛太くんより先に俺に頼ってほしい。それだけは、俺のわがまま、きいてもらえますか」
「……うん……ありがとう」
広務は椎名の体を強く抱き返した。
本当に自分にはもったいない、最高に優しくて男前な恋人だと思う。
最高の恋人は、きっといい父親にもなっただろう。可愛いお嫁さんをもらって、バリバリ仕事して、子供が生まれて、家を買って。
この恋は、椎名から世間一般の幸せを取り上げてしまうものなのだ。
でも自分達にしか実現できない幸せの形がきっとある。
「椎名。俺、きっと椎名と幸せになるから。椎名も俺と一緒に幸せになろ……?」
今まで、自分が誰かを幸せになんか出来るはずがないと思って生きてきた。でもそれは違った。
幸せにしてあげるんじゃなく、一緒に幸せになるのだ。それを広務に教えてくれたのは、瑛太と、椎名の存在だった。
「はい。俺も広務さんと、瑛太くんと三人で、幸せになります。広務さんを愛してます」
夢みたいだ、と最後に椎名は呟いて、再びまぶたを閉じる。広務は閉じたそこに、そっとおやすみのキスを落とした。
どうか、彼が健やかに眠れますように。
悪夢に震える夜や、涙に濡れる夜がないように。
そして目が覚めたとき、隣に愛しい人がいる一日を過ごせますように。
昔、生まれたての瑛太にかけたおやすみなさいのおなじないを、今夜からは椎名にかける。
おやすみなさい、よい夢を。
あなたと私と、大切な人達が、明日も幸せでありますように──。
おしまい
(次ページから、本編の数年後を書いた『おまけのSS』となります。もしよろしければ、おつきあいください)
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