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第一印象

 会議は十時から正午までを予定している。今の時刻は、九時三十分。急遽用意していた資料の一部差し替えが必要になり、慌ただしく動いている。どうしてここまで準備する時間は十分にあっただろうに、わざわざこんな直前になって焦っているのかと思うと嫌になる。 「亜樹さん、この修正必要だと思います?亜樹さんがあれだけ周到に準備したのに、こんな直前になって修正入れてくる上司ってどうなんですかね。」  少し小声で話しかけた。商工観光課からこのコピー機までは少し離れているが、いつ話を聞かれているかはわからない。自然と声も小さくなる。 「まぁもう少し早く言ってくれたら、と思わないと言えば嘘になりますね。ただ過去にも直前の修正で、大きなミスを避けられたこともありました。うちの課長は、時計が他の人よりも遅いところが少し残念ですが、内容を読み取って理解して、正確な指示を出す能力は優れていると思います。」 「そうなんですかねぇ。私にはズボラで、何か抜けてる感じにしか見えないですけどね。」  そう言うと、亜樹さんはふっと笑った。 「私も去年はそう思ってました。」 「課長は去年からうちの課に来たんでしたっけ。」 「そうです。正確なお歳は知りませんが、課長職の中では若い方だと思います。」  小声で話す二人に後ろから声をかける人物がいた。 「おう、調子はどうだ?間に合いそうか?」  話題の課長が話しかけてきた。亜樹さんが冷静に返す。 「はい、おそらく開始十五分前には全ての資料を用意できると思います。」 「悪かったな、修正が直前になっちまって。次からはもっと早く目を通すようにするから。」 「前回もそうおっしゃってましたよ。」 「ん、そうだっけか。まぁ気にすんな。今度こそは守るから。」 「はい、期待せずに期待しておきます。」  亜樹さんは、ため息をついたけれど、そのため息は浅かったように感じた。 「佐倉の方はどうだ?準備はオッケーか?」 「資料の準備とか事前に準備できるものは、全部準備しました。けど、入庁以来最も規模的にも重要性的にも大きな会議ですので、かなり緊張していますね。」 「そうだろう、そうだろう。緊張ってのは悪いもんじゃない。緊張してるってことは、本気で備えてきたってことだ。失敗できないって思うのは、そいつがしっかりと準備をしてきたってことの証だからな。誇っていいぞ。」 「なるほど、もしかして今褒められてます?」 「おう、褒めてるぞ。もし今日の会議がうまくいったら、帰りに酒を奢ってやってもいい程度にはな。」 「ごめんなさい、今日は同期と飲む約束があるので、また今度お願いします。」 「何だよそれ。まぁ同期と仲良くすることは良いことだ。まだわからないかもしれないがな、年数が経つほどに同期の重要さがわかってくるぞ。今はわからんでもいいが、とりあえず定期的に飲んどけ。俺は一人寂しく家で晩酌するとしよう。」 「課長って奥さんも子どもさんもいらっしゃいましたよね?」 「いるけど子どもは東京の大学に行って一人暮らししてるし、奥さんは構ってくれないからな。そういうもんさ。それじゃ後は頼んだ!」  課長はゆっくりと去っていった。もう少し焦っても良いのではないかと思う。 「課長、大丈夫ですかね。何か動きが緩慢というか、のんびりし過ぎじゃないですか?」  亜樹さんに、再び小声で話しかけた。 「佐倉さん、準備ができていない人ほど焦るものです。きっと課長の頭の中では、もう準備が終わっているのだと思います。私達も早く資料を用意して、余裕を持って会議を迎えましょう。」 「わっかりました。働きます。」  そう言うと、私と亜樹さんは集中力を増したのか無言で作業を再開した。  なんとか資料を取り揃えて、開始十二分前に会議の会場に入ることができた。亜樹さんと手分けをして、既に大半の出席者が着席している机を周り資料を配布していく。商工会議所の関係者、イベントの実行委員会、地元商店街の代表者など様々な人々が参加していた。さっさと資料を配りきってしまいたい、この重々しい空気から逃れたい、そういう思いが私の焦りを生んでしまった。 「ガッ」  何かに足を引っ掛けて派手に転んでしまった。残り三分の一程度になっていた資料が宙を舞った。 「痛ってぇ。」 足元を見る。どこにも引っかかりそうな場所なんてないのに、転んでしまった。急いで資料を拾おうとしたときだった。 「大丈夫ですか?」  そう話しかけられた。 「すみません、大丈夫です。ありがとうございま…。」  声の主を見上げたとき、突然世界がスローモーションになった。  目が離せない。  理屈ではない。  とにかく目を逸らすことを許してくれない。  ああ、私はダメかもしれない。 「どこか怪我をされましたか?大丈夫ですか?」  声が遠くに聞こえる。  遠くに聞こえるのに、耳元で囁かれるようにハッキリと聞き取れることができる。  ようやく時間の流れが戻ってきた。 「あ、すいません。失礼しました。」  その男性は微笑んで、何も言わず資料を拾うのを手伝ってくれた。 「すいません、ありがとうございました。」 「いえいえ、お気になさらず。」  会議開始時刻が迫っているからだろうか、私の心臓は激しく脈打ち、静かな会議室で一人鼓動の騒音に苛まれていた。

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