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第4話
どういう理由か木曜なのに客の入りがよかった小料理屋「八」では用意してあった野菜がもうすぐ無くなりそうだった。
「おい、ちょっと買いに行ってくれないか?」
そう父親に頼まれて、二階の自宅にいた亨は財布とスマホを掴んで裏口から出た。
長袖のTシャツにジャージ、サンダル履きで繁華街の端にある八百屋に向かって歩いてゆく。いつも通りの近道をしてラブホの前を通ると、入り口付近で人目を気にする二人連れや部屋の写真や値段を吟味するカップルがいる。それも亨には日常の一部で特に珍しい風景ではなかった。寧ろ注意を引いたのは横道から聞こえてきた声だった。
「なぁ、あんたまだ先生やってんの?」
「君には関係ない。」
「関係ない?俺のことなめてる?」
一方的にまくし立てる声と、壁を蹴る音。
喧嘩もごたごたも余程のことがない限り首を突っ込むことはないのに、『先生』の声が耳に引っかかった。
覗いてみると壁に追い詰められた男の髪を、ガラの悪い若い男が掴んで上を向かせている。その横で「ちょっとぉ、止めなよ。」と、止めさせる気もあまりなさそうな女が周りを見回していた。
薄暗いからすぐには分からなかったが、腰高い体格とあの香水の匂いはまぎれもなく三品だった。後頭部を軽く壁にぶつけられて、顔を歪ませ小さな声で呻いている。
「おい、止めろ!その人から手を離せ。」
その言葉に女の方が気色ばんだ。
「ガキが首突っ込むんじゃねぇよ!」
男の方がむしろ冷静で、亨を見ると舌打ちし三品の髪をつかんだまま壁から離れた。
「何だよ、知り合いか?」
そういうと三品の髪をぐっと引く。
「いたっ......!」「おい止めろ!」
亨が横道を進んでゆくのと同時に、三品の頭が正面から反対の壁に向かって押し出された。
はっとして走り寄り手で額を守ろうとしたけれど間に合わず、小さな音を立てて衝突した。追いかけようかと一瞬迷ったが、頭をぶつけた三品の方が心配だ。それに気を取られている隙に二人は走り去っていた。
「う……いったぁ。」
呻きながら額をぬぐって血が出ていないことを確認する。たんこぶにならないといいが痣ができるのは避けられなさそうだ。
「大丈夫ですか?」
そう言って、泣きそうな顔で三品の頬を亨は両手で包んだけれど、じっと見つめ返す瞳に戸惑ってすぐ手を放した。引き込まれないように額に視線を移した真剣な表情に、三品はきまりの悪そうに笑った。
「血が出てないから多分大丈夫。八谷くんには嫌のところばかり見られるなあ。」
突っかかってきたのは前にいた英会話教室の生徒だった。好きになった女子生徒が三品に惚れていたというだけで、あることないこと噂をまかれ、挙句の果てには学校に「あの講師は女子生徒に言い寄ってる、辞めさせろ」と迫ったらしい。学校側はただの言いがかりとしてあしらっていたが、そんないざこざもあって居心地が悪くなり他の数人の講師と共に退職した。辞めた中に彼の気に入っていた講師も混ざっておりそれも恨みを買った一因だろうと三品は理解していた。
でもこんなところで目の前の生徒にそれを話すつもりはない。
なのに、三品は腕を取られて歩き始めていた。
今日は久しぶりにバーで相手を探そうと思っていたのにな。
肌寒い夜を歩いてゆく。ジャケットを着た三品の目の前には長袖シャツ一枚の背中。時々心配そうに振り返ってくれる。
シャツ越しにも僧帽筋や三角筋が分かる。その手触りや肌の温もりを想像して三品はうっとりとした。
彼は僕をどこにつれてゆく気なのか。自宅がどこか知らないけど、家に連れてゆくのが順当だ。まさかこの辺のラブホに連れ込まれることはないよなぁ。
元々モラルとは別の次元で生きている三品だから、好き勝手に妄想は続く。
温和な雰囲気の顔に、高身長で程よい筋肉。確か授業前に友達にもちょっかい出されていた。真面目で面倒見がよくって忍耐強い、年下にモテるかな。そしてきっと押しに弱いタイプだ。
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