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act.01

20XX年4月6日午前10時11分 イタリア南端レッチェのホテル内  自室とは違い硬いマットレスの上でアレッシオは目を覚ました。ベッド側の備え付けの時計に目を遣ると、午前10時を既に回っている。 「ふぁぁ〜、ちっと寝過ぎたか?」  アレッシオは固まった身体を解すように伸びをしながら隣を見ると、もぬけの殻だった。  きっと、朝のロードワークにでも行っているのだろう。  トマゾと付き合いの長いアレッシオはそう判断すると、欠伸を噛み殺しながら立ち上がった。  素肌にシャツを引っ掻け、ジーンズだけ穿くとそのまま窓辺に歩いていき、カーテンを開けた。途端、目映いばかりの光が室内に飛び込んでくる。  レッチェの頭上に広がる空は今日も青く澄み、美しい街並みを更に美しく見せていた。 「煙草は、っと……」  何時もの朝の一服を楽しもうとシャツのポケットに手を伸ばしたアレッシオだったが、目的の物はなかった。 ジーンズの方のポケットも次いでに叩いて見るが、見事に何もない。 「買いに――」  階下に煙草くらいあるだろう、と買いに行こうとしたアレッシオだがあることを思い出して足が止まった。 「そういえば、金、無かったな……」  テーブルの上に無造作に置かれた財布をひっ掴み中身を見ると、綺麗に空だった。昨日の夕食で殆ど使ってしまったのだ。 「あー、面倒だが下ろしにいくしか――」  重たい溜め息を溢し、引っ掛けていただけのシャツに袖を通し始めた時、勢いよく部屋の扉が開いた。 「おはようございます!! アレッシオさん!!」  現れたのは、仕立ての良さが一目でわかる上品なシャツとズボンを身に付けたトマゾだった。  はて、トマゾはロードワークにいったのではなかったのだろうか?  訳が分からぬといった表情で首を傾げるアレッシオにトマゾは気付いていないのか、爽やかな笑みを向けたままだ。 「お前、ロードワークに行ったんじゃなかったのかよ」 「え? あぁ、ロードワークには行きましたッスよ、朝の6時くらいに」  朝の6時というと、アレッシオがまだ夢の中にいた時間で、大分前のことになる。まさか、この時間まで走っていたというわけでもないだろう。  益々訳が分からないアレッシオは眉間に寄った皺を揉みほぐしながら、尋ねた。 「で、その格好はなんだ?」  アレッシオの一番の疑問はそこだった。  トマゾの服装は、どこからどう見てもロードワークにいく服装には見えない。まるで、これからデートにでも行くような格好をしている。 「あ、これッスか?」  トマゾは自身の着ているシャツの裾を摘んでみせた。 「コレ、気前が良くて優しい淑女の方に買ってもらったッス。いやー、朝飯も御馳走してくれてお金もくれて、ホントいい女性でしたよ」  嬉々として事の顛末を話すトマゾに、アレッシオは脱力感を覚えた。  トマゾは善意で恵んで貰ったと言っているが、恐らくは嘘デマカセをでっち上げて同情を誘い貢がせたのだろう。普通なら引っ掛からないだろうが、トマゾは顔がイイ分引っ掛かる女性も多い。  野性味を帯びた碧眼、高い鼻梁に、薄い唇と顔全体が整っている上に手足も長く、背も高い。青みがかった髪は短くもなく、かといって長いわけでもないが手入れがされていて陽に透けると見事な色味を見せる。  そんな男が弱味を見せて、甘えるのだ。母性本能や庇護欲をそそられる女性がいてもおかしくない。現に、こうやって貢いでもらったらしき物を身に付けたトマゾがアレッシオの目の前にいるのが何よりの証拠だろう。  まぁ、騙された方は堪ったものではないだろうが。  アレッシオは呆れたような目でトマゾを見た。 「お前、まだそんな事してたのかよ」  アレッシオの批難が込められた一言に、トマゾは拗ねたのか頬を膨らませた。 「えー、てっとり早くてイイじゃないッスか。向こうも楽しんだし、俺もお腹も膨れてお金も貰えて幸せ。ほら、何も悪いことはないじゃないッスか」  悪びれずに言うトマゾにアレッシオは頭痛を感じずにはいられない。確かにニコロファミリーに拾われるより昔。金がない時にアレッシオもよく使っていた手ではあるが、今は生死に関わるほど金に困っているわけではない。  第一手元にないだけで、銀行に行けば済むだけの話なのだ。  しかし、貰ってしまった物を今更返す訳にもいかない。もし、警察に突き出されでもしたら命令は果たせないどころか、ファミリーに命すら狙わね兼ねない状況になるかもしれないのだ。  それに、アレッシオは善人というわけでもない。  貰ってしまった物は仕方ない。ここは、素直にその恩恵にあやかることにしよう。  アレッシオは頭をクシャリと掻くと、切り替えが済んだのか、スルスルと服を着ていく。  元々ゴテゴテと着飾るのが苦手なアレッシオは、紺のシャツとジーンズのラフな格好になると欠伸を一つしながら洗面所へと向かう。 「トマゾ、それ目立つから他の服に着替えとけ。俺が顔洗い終わったら出るぞ」  そう言い残して、アレッシオは洗面所の扉の向こう側へと消える。 「はい、了解ッス!!」  トマゾの元気のいい返事を洗面所で聞きながら、アレッシオは今日の予定を組み立てていた。 ********************* 20XX年4月6日午後4時38分 イタリア南端レッチェ ホテル《ディ・マーレ》前  目の前に建つ白塗りの壁が美しい建物を、アレッシオとトマゾは見上げていた。 「ここか……」  見上げるといってもニューヨークに群立するビルディングのように高い訳ではない。裕福層向けの小規模なホテルなのか、3階程度の高さだ。 そんな建物が小高い丘の先。崖を背に建っている。  中国にあるらしい崖に立てられたレストランといい、人間の建築技術というものは不可能を可能にするから凄い、とアレッシオは素直に感心していた。  崖といってもそう高さはなく、最上階に近い高さから落ちても運がよければ死にはしないだろう、というのがアレッシオの見解だった。  幸い、アレッシオは運はいい方だ。それに、トマゾの情報通り、下には深く穏やかな海が広がっていて、当初の予定通り〝もしも〟の時の脱出経路に利用できそうだ。 「しっかし、まぁ……」  そう口にしながら、アレッシオはグルリと辺りを見回した。最近出来たばかりとあって客足も多く、ホテルの顔である玄関口にはひっきりなしに高級車が乗り付け着飾った女性や男性を吐き出していく。 「うーん、結構人が多いッスね」  トマゾの困ったような呟きにアレッシオは頷いた。たった今、アレッシオも思っていたことだ。 「あぁ、こりゃドンパチはなるべく避けたいところだな」  外観を眺めながら感想を溢すアレッシオは、考えたくないとでもいうように頭を横に振る。  人殺しが悪い、といった倫理観や道徳はこの世界に足を踏み入れた時に捨てたアレッシオではあるが、やはり民間人を巻き込むとなると後味も寝覚めも悪い。  トマゾも、またニコロファミリーの総意であるボスのニコロも同じ考えらしく、どうしようもない場合を除き、民間人を捲き込むことをよしとしていなかった。 「何かいい方法はないかねぇ」  アレッシオは顎の無精髭を指先で撫でながら、ホテルを鋭く見据えている。 「そうッスねぇ、……客が全部逃げちゃえば問題ないんでしょうけど……」 「逃げる、か。いっそ、小火でも起こすか」  自棄っぱち気味な案を口にしたアレッシオだったが、それはないかと首を振った。  もっと堅実的な案を探すべきだ。  そう思い、再び試案し始めたアレッシオの横でトマゾが目を輝かせながら「それ、いいかも知れないッス」と呟いた。 「は? いや、マジでか?」  提案したのはアレッシオだが、まさか乗ってこられるとは思っていなかった。  アレッシオが驚いた表情で隣を見ると、トマゾが何やら電話を取り出していた。 「お前、何してるんだ?」 「ここのホテルに電話ッス。下調べでバイト募集してんの知ってたんで電話してるんスよ」 「は? バイト?」  意味が分からないと、アレッシオは首を捻った。  バイトと明日の事がどう関係するのだろうか? 「はい、そうですね。はい、はい……」  トマゾに聞こうにも電話で手が離せないようで、アレッシオは大人しく待つしかない。 「はい、わかりました。明日の午後6時にそちらに伺います」  いつもと違い丁寧な口調で話すトマゾに新鮮味を感じていると、どうやら通話が終ったようで、アレッシオはニッコリとトマゾに笑いかけられた。 「明日の午後6時に面接を受けることになったッス」  トマゾの報告にアレッシオはガックリと項垂れた。 「そりゃよかったな。でも、俺達は遊びに来てるわけじゃないんだぞ?」  有能だと思っていたのはアレッシオの買い被りだったのだろうか。今一度目的を説明しておく必要があるような気がして、眉をつり上げトマゾへ向かい合う。 「俺達の目的はカポからの命令の遂行だ、遊びは後で自分1人でやれ」 「勿論わかってますよ」 「へ?」  予想外のトマゾの返事にアレッシオは呆けたような声を出した。  なら、何故今頃バイトの面接など取り付ける必要があるのだろうか。  納得がいかず難しい表情のままのアレッシオの腕をグンッ、とトマゾが引いた。 「アレッシオさん、説明するッスから。まずはここから離れましょう。あんまり長い時間眺めてると怪しまれるッス」 「え、あぁ……そうだな」  今のトマゾ言い分は正しいと思うのだが、どうも釈然としないアレッシオだったが、命令が遂行しにくくなるのは歓迎出来ない事態だ。  ふぅ、と大きな溜め息を吐くとアレッシオは大人しくトマゾについていく事にした。

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