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act.01

20XX年4月7日午前8時10分 イタリア南端レッチェより南下しオトラント 《ブロスキ貿易》前  澄みきった青の水をたたえる海が広がるオトラント。かつてはプーリア州内でも貿易の拠点として栄えていたが、ブリンディシやバーリにとって代わられた今、かつての栄光を感じさせる街並みを残したままリゾート地と人々に認識されるようになっていた。  オトラントでは、オトラント城が有名であるが常に見える位置に事務所を構えるフィリッポ・ブロスキにはたいして珍しくもなかった。  それよりも気になるのは今日の取り引きのことである。  この取り引きが上手くいけば、暫く遊ぶに困らないだけの金が手に入る。  フィリッポはデップリと前に突き出た腹を揺らしながら笑った。  取り引きまでの時間が焦れったい程である。  ――まぁ、先に行って美味いものでも食べながら待つか……。  薄くなった頭を隠すように目深に被った帽子の下で、まだ見ぬ美食に舌舐めずりをしたフィリッポは「おいっ!!」と秘書のアキーレを呼びつけた。 「はい、なんでしょうか?」 「く、車を呼べ。早いが、《ディ・マーレ》に行くぞ」  アキーレは無表情のまま頷くと、電話をかけ始めた。  そしてその数分後、フィリッポ達のいる事務所の前に黒塗りの高級車が1台止まった。 「フィリッポ様、車が到着致しました」  恐らく、運転手から連絡を受けたのであろうアキーレがそう告げるとフィリッポはフンッ、と鼻を鳴らしながらのっそり歩き始めた。  事務所の外に出ると、黒塗りの高級車と2人の体格のよいボディーガードがフィリッポを待っていた。  風もなく穏やかな気候。オトラントの空は海の色と同じく澄み渡り、白い帆を張ったヨットや個人所有なのであろう小型クルーザーが静かに浮かんでいるのがコンテナが積まれていない部分から遠目に見えた。  先ずは金が入ったらクルーザーを買うのも悪くない。ウンと、派手な物を買うとしよう。  飽くなき妄想にゲヘへと気味の悪い笑いを溢すフィリッポより数十メートル手前。  赤色のオンボロプジョーが、壊れそうな音を立てながら止まった。  ガチャリと車の扉が開き、フィリッポ達は警戒の色を強くする。 「よぉ、こんにちは。 ブロスキさん」  そう言いながら、親しげに片手を上げ降りてきたのはスーツを身に纏ったアレッシオだった。  オンボロプジョーの助手席には誰もおらず、運転席から出たアレッシオだけカツリ、と革靴の踵で舗装された地面を踏み鳴らした。 「アンタがブロスキさんだろ?」  慇懃な態度と口調で歩み寄るアレッシオにフィリッポは早くも顔を真っ赤に染めた。 「お、お前は何だっ!! 俺を、誰だと思ってる!!」  唾を撒き散らしながら怒鳴るその姿は醜いことこの上なく、アレッシオは農家で飼われている豚の方がまだ可愛いげがある気がした。  デップリとした腹から視線を逸らし、アレッシオは言った。 「いえいえ、アンタがそこのブロスキ貿易のえらーい社長様だってのはよぉーくわかってますよ?」  カツリ、カツリと距離を縮めていくアレッシオに不信感を募らせたボディーガード達は、無言で銃を取り出すと銃口をアレッシオへと向ける。指はトリガーに掛けられ、フィリッポの一声があれば直ぐに引ける状態だ。  そうなれば、アレッシオは抵抗する間もなく蜂の巣にされてしまうだろう。  死と背中合わせのスリルが、アレッシオの背中をゾクゾクッ、と這い上がる。 銃のサイトを覗き込んでいる時と同じくらい気分は高揚しているのに、頭だけはこれ以上ないくらい冷静になっていく。  アレッシオは、丸腰であるとでもいうように何も持たぬ手を胸の高さまで持ち上げてフラフラと振った。 「なにもアンタを襲いにきたワケじゃねぇんですわ。ちょっと話がありましてね」  普段殆ど使わぬ上に、相手が相手なのもあって酷く可笑しな敬語だった。  きっと、トマゾがこれを聞いていたならば爆笑していたに違いない。  などと考えていたアレッシオの耳に、予想通りトマゾの噛み殺し切れなかった笑いが聞こえた。 『アレッシオさん、そのしゃべり方……っ、くくッ』  断続的な笑いがアレッシオだけ――左耳に嵌めたイヤーカフ擬きの通信機から聞こえている。  ――くそっ、トマゾのヤツ!!  アレッシオは内心で悪態吐いた。フィリッポ達を前にしていなかったら思いっきり殴ってやったのに。  仕方がない、それはコレが終わってからにしよう。  そう決めると、表情筋が引きつるのではないかと思うほど口許をつり上げ笑みを浮かべた。  ゆっくりと、また1歩近付き。フィリッポ達まであと3メートルという所でアレッシオは足を止め、胸ポケットを漁った。 「で、ブロスキさんにお願いがあって来たんですよ。あ、俺こう言う者です」  そういってアレッシオが取り出したのは、少しヨレた名刺だった。  白のシンプルな紙に黒の字。実にシンプルな名刺には〝フリーライター アメデオ・カルヴィーノ〟と書かれていた。  勿論、アレッシオはそんな名前ではないし、こんな人物は実在しない。所謂、〝偽名〟というやつだ。  ――やることが、手が込んでるんだよなぁ。  偽名はよく使うアレッシオだが、調べられてしまえば一発で偽名だとわかってしまう。しかし、今回のは一味違い、トマゾがオルソやパスクァーレに頼み手配させたもので、裏ルートで戸籍を買い取りあたかも〝アメデオ・カルヴィーノ〟が実在しているように見せ掛けるといった手の込みようだ。  既に、この偽名で次の手まで打っているらしい。  ここでしくじる訳にはいかないのだ。  ニコニコと笑顔を絶さぬアレッシオを、フィリッポは胡乱気な瞳で見詰めた。そして、アキーレにコソコソと耳打ちをするとアキーレがアレッシオとの距離を詰め、引ったくるように名刺を浚っていった。  アキーレから手渡された名刺に目を通したフィリッポは横柄な態度のまま、名刺を地面に投げ捨てた。 「ふ、ふん、お前みたいなヤツが、俺に何の用だ。俺は忙しいんだ、か、帰れ」  ひらり、ひらり、と白い紙が宙を舞い質量を感じさせず地面に落ちた。  アレッシオは気付かれぬように小さく口角を上げる。  幕はこれで上がった。  アレッシオがゆっくりと――焦らすほどにゆっくりと、身を屈め落ちた名刺を拾おうとした瞬間。  ガゥンッ!!  重々しい音がアレッシオの鼓膜と渇いた空気を震わせた。それを合図にアレッシオは身を低くしたまま左へと飛び、2回転、3回転と地面を転がると素早く立ち上がり走った。  目指すコンテナまではあと数メートル。  背後では「ヒィッ!?」といったフィリッポとアキーレの引きつったような声が聞こえる。恐らくトマゾが上手くヤってくれたのだろう。  今頃地面にはデザートイーグルの的になって無惨に散らされたボディーガードの血肉や所々灰色の脳しょうがぶちまけられ、首なしの肉体が痙攣しながら血を吹き出している筈だ。  フィリッポ達がそれに気をとられている内に、コンテナまで辿り着かなければならない。    しかし、あと1メートルといった所でアレッシオの足下を銃弾が抉った。  ――チッ、もう立ち直りやがったか。  もう少し時間がかかると踏んでいただけに、アレッシオは内心舌打ちをした。  が、運はアレッシオに味方しているらしい。コンテナはもうすぐそこだ。  アレッシオが滑り込むようにコンテナの影に入ると、その直ぐ傍を銃弾が掠めていった。スーツの内側に装着していたホルスターから相棒を抜き、セーフティーを外す。そうしていつでも発砲可能なソレを片手に構えると胸ポケットから何かを取り出した。  キラリと光るそれは、アレッシオの顔や風景を寸分違わぬ状態で左右反転に映していた。鏡だ。  右利きであるアレッシオは、相棒を利き手に。左手に鏡を持ちコンテナの影ギリギリへと移動した。  カツリ、カツリ、と革靴の底が地面を叩く音がコンテナにくっ付けたアレッシオの耳に聞こえてくる。今、このコンテナから顔を覗かせたら綺麗に額に風穴が空くことになりそうだ。  ――慎んで遠慮したいわな。  アレッシオは、フルリと頭を振ると左手に持っていた鏡を使った。  車のサイドミラーのように屈折を利用して敵の位置を探るのである。 まぁ、少しばかり見難いのが難点ではあるが。  目測でコンテナより4メートル手前、アレッシオを狙っているのであろうボディーガードの男がいた。  ――さて、チャンスは1回こっきり、か。  アレッシオはゴクリと喉を鳴らした。  左手に持っていた鏡をコンテナの影からボディーガードの男の方へと放る。それと同時にコンテナの影から飛び出し真横へと跳びながらベレッタを構えた。  ボディーガードの男は一瞬鏡に気をとられた後、アレッシオへと気付いたが――もう遅い。  サプレッサーにより極限まで音を押さえたベレッタがタァンッ、と軽い音を発した。  音速に近い速度で銃口より発射された9ミリパラベラム弾が正確に男の頭を撃ち抜く様子を目にする前にアレッシオは次の行動に移っていた。  ドサリッ、と重たいモノが地面に崩れ落ちる音を後ろに聞きながらアレッシオは走った。足を止めてしまえば蜂の巣になるのは自分だ。 「ッ、と」  見当違いの方向へと銃弾が飛んでいく。それにあわせてフィリッポの耳障りな声がしているから、十中八九今撃ってきているのはフィリッポだろう。  ――はッ、ノーコンめ!!  次のコンテナの影に飛び込みながら、アレッシオは笑った。  当たらなければ撃つだけ無駄。  もっと言えば、撃つほどに自身を窮地へと追い込んでいるようなものだ。  ――さて、あと何発残ってるか……。  アレッシオは両手指を折りながら数えた。一瞬見ただけだが、フィリッポの持つ銃はおそらくM1911。ガバメントと呼ばれる銃だ。だとしたら弾数は7発程。  ――今、6発位か。  パァンッ、と渇いた音がオトラントの青空のもと響き渡る。  7発目の銃弾だ。  ――ここは賭けといこうじゃねぇの。  全てアレッシオの推測でしかないのだから、ハズレもあり得るワケだ。その時は、――アレッシオに待っているのは死だ。  生か死か。2つに1つ。  ――実にシンプルじゃねぇの。  ニッ、と笑うとアレッシオはベレッタを片手にコンテナの影から飛び出した。  驚き目を丸くするフィリッポだが、直ぐに銃口をアレッシオへと向ける。だが、それと同時にアレッシオの持つベレッタの銃口もフィリッポに向いていた。  両者とも発砲はしない。互いにトリガーに指をかけたまま、時間が数秒過ぎたところでフッ、と息を吐き出したアレッシオがこの場にそぐわぬ軽い口調でフィリッポへと話しかけた。 「なぁ、ブロスキさん、ちょいと待った。取り引きしねぇか?」 「う、うるさい!! お、お前なんぞと取り引きなど出来るかっ」  激昂したフィリッポが、トリガーにかけていた指を引いた。  が、――カチンッ、と虚しく撃鉄が落ちる音が響いただけで弾は発射されなかった。  その瞬間、信じられないものを見るかのようにフィリッポが目を見開く。あ、あ、と言葉にならない声を溢しながら後退りし、ついにはガタガタと震える手からカララッ、と音を立てて銃が地面に滑り落ちてしまった。  真っ赤に染まっていたフィリッポの大きな丸顔も、いっそ哀れな程に蒼白く。脂ぎった顔にはアレッシオの目にも分かるほど大量の冷や汗がダラダラと流れていた。  カツリ、と足を踏み出したアレッシオがフィリッポとの距離を詰める。 「あ、あぁ、アキーレ!! ど、どこだ、アキーレ!! 俺を助けろっ!!」  ジリジリと近寄るアレッシオから距離をとろうと更に後退りするフィリッポは、大声で秘書の名前を呼んだが返事をする者はいない。それもその筈。フィリッポがアレッシオ自身に気をとられている内にトマゾが手を打っていたのだ。 「アキーレさんなら、ここッスよ」 「ヒィッッ!?」  フィリッポは背後から聞こえてきた第3者の声に飛び上がらんばかりに肩を跳ねさせ、そのまま地面に転がった。  そろりと顔をあげると見知らぬ若い男がアキーレの頭に銃口を突き付けたまま笑っていた。  コツリ、コツリ。足音が響き、フィリッポの頭上に影が落ちた。  ギ、ギ、ギ、と油をさし忘れた機械のようにフィリッポが振り向いた。逆光の中、青色の目の悪魔が白い歯を剥き出しにして笑っている。 「や、やめ……っ、助け――ンぶ!?」  命乞いをするフィリッポの口に、冷たく、硬い銃口がゴリッ、と突っ込まれた。恐怖で体がガタガタと震え、足の間からショロショロと黄色い液体が染みだす。 「ん、んぐぐ!! ふぅううっ――!!」  銃口を口に突っ込まれたままのフィリッポがくぐもった声をあげるが、死へのカウントダウンは止まらない。 「永遠にさよなら、だ。豚野郎」  アレッシオの無情なまでの一声を合図に、タァンッ、とベレッタが一鳴きした。

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