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act.01

20XX年4月7日午後6時 イタリア南端レッチェ ホテル《ディ・マーレ》内  でっぷりとした腹を揺らし歩くフィリッポの偽者の後をアメデオ・カルヴィーノ――つまり、アレッシオは静かに歩いていた。 ここまではアレッシオ達に運が味方しているのか、特に怪しまれることなくチェックインを済ますことが出来た。  後は、このままエレベーターに乗り込み一気に3階を目指すだけだ。  しかし、アレッシオには気になっている点があった。  ――……ロビーにいる人間が少なすぎる。  昨日偵察に来た時には、何度も高級車が玄関口に乗り付けていた。ということは、多くの客がここにいるという予想ができる。が、それにしてはロビーやエントランスで見かける人間が少なすぎるのだ。  今日チェックアウトを済ませた客がいるにしろ、ロビーに人が疎らにしか居ないのはおかしい。  ――客室にでも隠ってるのか? ……それとも、外食に出掛けてるか……。  そう考えたアレッシオだったが、理由付けとしては不十分である気がした。ここは金持ちの道楽のために造られたホテルだ。当然、併設されたリストランテも一流であるはず。こぞって外に食べに行く必要などない気がするのだ。  喉に小骨が引っ掛かった時のような違和感にアレッシオが眉を寄せていると、フィリッポの偽者がアレッシオの肩を叩いた。 「アレッシオさん、どうかしましたか?」  小声で気遣うように話し掛けられ、アレッシオは我に返る。 「え? あぁ……まぁ、気のせいだと思うが、人が少ない気がしてな……」  そう口にして、辺りを見回すもチラホラとホテルのスタッフが働いている姿とロビーの豪奢な椅子に腰掛けた妙齢の女性と男性が和やかに談笑している姿があるだけだ。  フィリッポの偽者もアレッシオに倣うように辺りを見回す。しかし、彼はアレッシオと同じ様には思わなかったらしい。 「確かに……少ないですが。こういうものなんじゃないですか?」  そんな返事をされ、アレッシオは言葉を詰まらせた。 「……まぁ、そうなのかもしれんが……」  けれども、やはり腑に落ちない。何か、見落としていることがあるのかもしれない。そういった危機感のようなものがアレッシオの内側で燻り続けている。 「あ、エレベーターが来たみたいですよ」  フィリッポの偽者の声にアレッシオが視線を戻す。  目の前にはエレベーターが丁度上の階から降りてきたらしい客を吐き出したところだった。すれ違う人に少しだけ不安が薄らいだアレッシオは、気のせいだと思い込むように頭を振るとエレベーターに乗り込んだ。  静かに閉まる扉を見詰めながら、アレッシオは意識を切り替えた。  フィリッポとアレッシオを乗せたエレベーターは途中で止まる事もなく滑らかに上昇していく。そして、数十秒後。2人を乗せたエレベーターは階表示に3階を指し示し、止まった。目の前でゆっくりと扉が開いていくのを見詰めながら、アレッシオはゴクリと息を呑む。  程よい緊張がアレッシオの体を巡っていた。  フィリッポの偽者と短く目配せを交わすと一歩を踏み出した。そのまま2人は静かに豪奢な織りの施されたマットを踏みしめ、2つしかない扉のうち、エレベーターとは反対側――奥の部屋へと通じる扉の前で足を止めた。  スゥッ、と息を吸い込み、アレッシオは腕を上げた。  コン、コンッ、と静まり返った廊下にアレッシオが扉を2回ノックした音が響き渡る。 「アキヤマさん、いらっしゃいますか? アキーレの代わりに来ましたアメデオです。例の件でお話を――」  アレッシオがそこまで続けたところで、唐突に扉の向こう側から男性の声が聞こえた。 「あ、はい!! 今、開けますね」  そう聞こえ、数秒も経たない内に扉のノブが回される音が2人の耳に届いた。  滑らかに開く外開きの扉の内側、写真で目にした男が朗らかな笑みを浮かべたまま立っていた。  一瞬毒気を抜かれたアレッシオとフィリッポだったが、直ぐ様に我に返る。 「ほぅ、この方が君の話に聞いていたアキヤマさん、か?」 「はい、社長」  大きな体を揺らし帽子を目深に被ったところまでそっくりなフィリッポの偽者の芝居に乗るように、アレッシオは恭しく頭を下げ頷いた。  今は自分は〝アメデオ・カルヴィーノ〟で、目の前の男はそのターゲット。どれだけ人が良さそうに見えても、油断するべきではないのだ。 「あ、どうぞ。中に入って下さい」  アキヤマの言葉に従うように、フィリッポとアレッシオは室内に足を踏み入れた。  広々とした室内は、アレッシオの住むアパート一室が簡単に収まってしまいそうなほどだった。頭上にはクリスタルのシャンデリアが飾られ、床は磨き抜かれた大理石。調度品も全てアンティークで統一してあるのか、古めかしくも暖かな木の色合いと美しい細工が見事だ。  溜め息が溢れそうになるアレッシオだったが、調度品や部屋の凄さを見に来た訳ではないのだ。  扉が閉まっているのを確認すると、フィリッポに付いていく形で室内中央のソファまで辿り着く。 「あ、どうぞ。座って下さい」  アキヤマに促され、フィリッポに続きアレッシオもフカフカのソファに浅く腰掛けた。 「改めまして、僕はアキヤマです。日本で小さいですが貿易会社を経営してます」  そう言って、アキヤマが丁寧に名刺を取り出す。綺麗に形を整えられた爪、細長い指が白い名刺をアレッシオ達に差し出している。 「お噂はアキーレより聞いておりますぞ。今日はお会いできて光栄です」  アレッシオの隣のフィリッポ役のアソシエーテがスラスラと言葉を返す様子を横目に見ながら、アレッシオはアキヤマの顔を盗み見た。  写真で見るより気弱そうな瞳。背格好は中肉中背といったところだろうか。短めの黒髪に黒のスーツを身に纏っているが、服に着られているような印象を受けた。  ――……これが、カポが警戒するブローカーなのか?  アレッシオの中で、疑念がムクリと頭をもたげる。人を見た目で判断すると痛い目にあう、とはよく聞くが――目の前の人物は見るからに悪事とは無縁の存在のような気がしてならない。  あまりにもジッと見詰めていたせいもあって、視線に気付いたアキヤマとアレッシオの目が合ってしまった。 「アメデオさん? どうかしました?」  不思議そうな顔のアキヤマに尋ねられ、アレッシオは困ったような表情を浮かべたまま頭を横に振る。 「え? あぁ、すみません。少し緊張してしまいまして」  そう言って、アレッシオは照れ臭そうに頬を掻く仕草をしてみせると、アキヤマは「そうでしたか」と柔らかな笑みを浮かべフィリッポへと視線を戻した。  ――……本当にコイツが?  アレッシオの疑念は、益々強くなるばかりだ。  ――何か、確かめる方法がありゃいいんだが……。  アレッシオが、内心そんなことを考えている時だった。  ジリリリリリリッ、と突如けたたましい音が部屋の中に響いた。火災報知機の音だった。  つまり、トマゾの計画の第一段階が上手くいったということだ。 「こ、これって火災報知器ですよね? っ、に、逃げないと!!」  慌てた様子で部屋を飛び出そうとするアキヤマの手首を、アレッシオが掴まえた。 「アンタにはまだ用があるんだ、ちょいと付き合ってもらうぜ?」    アレッシオは、有無を言わさぬ力でソファまでアキヤマを連れ戻す。  そして、片手をスーツの内側へと差し入れ相棒のベレッタを引き抜いた。黒光りした銃の銃口がピタリとアキヤマの眉間に向けられる。 「あ、アメデオさん? い、一体何のつもりで……」  アキヤマは、信じられないものを見るかのような顔でアレッシオを見詰めた。しかし、アレッシオの持つ銃口はアキヤマの眉間に狙いを定めたままだ。  ガタガタとアキヤマの体が震え、顔は血の気をなくしていくが、アレッシオは畳み掛けるように口を開いた。 「なぁ、芝居はやめにしようぜ。アンタ、わかってるんじゃないのか?」  アレッシオの問い掛けに、アキヤマは頭が取れそうなほどの勢いでブンブンと横に振った。 「わ、わかりませんっ!! そもそも、芝居って一体何なんですか!?」  アキヤマの言葉に、アレッシオの肩がピクリと動いた。  アレッシオの中で膨れ上がった疑念はこの瞬間、確信にと変わっていた。恐らく、アキヤマは白。何故この件に噛んでいたのかは分からないが、武器の密輸等とは何ら関係もないのだろう。  アレッシオのトリガーにかけていた指から、力が抜ける。 「じゃあ、アンタは一体……」  アレッシオが、アキヤマに向けていた銃口を下ろそうとしている時だ。 「騙されちゃ駄目ッスよ、アレッシオさん!!」  扉が蹴破るような勢いで開かれ、部屋の中にトマゾが転がり込んできて大声を上げたのだ。  ここまで走ってきたのだろうか、額に汗を浮かべ息を弾ませるトマゾに怪訝な目を向けながらアレッシオは口を開く。 「っ、トマゾ。〝騙されちゃ駄目〟ってどういう意味だよ」 「そのままの意味ッス。ソイツがターゲットであることは間違いないですし、カポの命令は絶対。そもそも、その情報が間違ってるなんてあり得ないッスよ!!」  早口に捲し立てるように言うトマゾに気圧され、アレッシオは閉口した。確かに、上からの命令は絶対であり、今までにこなしてきた命令の中で与えられた情報は全て間違ってはいなかった。  だとしたら、やはりアキヤマのこの態度は演技なのか。  アレッシオは、再びアキヤマの眉間に狙いを定め銃口を向ける。 「ち、違う。僕は何にも分からないっ!! ただ、――」  何か重大な事を口にしようとしたアキヤマの頭に、赤いレーザーポインターのような光がチラリと舞う。サッとアレッシオの顔色が青ざめた。 「っ、アキヤマ伏せろッ!!」 「え?」  ガゥンッ!!  一瞬の内に、渇いた音が室内に響き渡った。  ドサリ、と重たい何かが床の上に転がる音がヤケに生々しく耳に届いた。鼻先を擽る臭いは紛れもなく血の匂いだ。 「――ッ、くそったれ!!」  アレッシオはそう口にしながら、床を転がるようにして隣の部屋へと飛び込んだ。トマゾもそれに続くように部屋へと飛び込むと左右に別れ、扉近くの壁に背をつけて隠れた。 「おい、早くこっちに――」  ガゥンッ!! ガゥンッ!!  2発の銃声が響き、アレッシオの声が掻き消される。  チラリと扉の影から隣室を覗くと血の水溜まりの中に沈むアキヤマともう1人――フィリッポ姿のアソシエーテが銃を片手に沈んでいた。  アレッシオは、頭に血が上っていくのを感じた。腹の中まで煮え繰り返って、仲間とアキヤマを殺った相手を八つ裂きにしたい衝動を覚える。 「ッ、チィッ!!」  吐き捨てるようにそう口にすると、燃えるような瞳で隣室に目を走らせた。  ――どこだ!! どこにいるッ!!  ギリリ、と音が鳴るほどに歯を噛み締め、銃を片手に握り締めたまま室内を探すが敵の姿は見えない。そもそも、レーザーサイト(赤外線暗視照準器)を使っている時点でこの部屋に敵の姿はないのだと普段のアレッシオであれば気付く筈なのに、怒りはアレッシオから冷静さを奪っていた。 「アレッシオさん、どうするッスか」 「あ゛? どうするもなにもアイツらを殺った奴を見つけて殺すに――」  当然だろうと云わんばかりに眦を吊り上げた顔で答えたアレッシオだったが、冷静な表情のまま辺りの様子を窺うトマゾに遮られた。 「しっ、静かに……足音がするッス……」  アレッシオの心の中は相変わらず怒りで荒れ狂っていたが、トマゾに倣うように耳をすませる。廊下に敷かれたマットのお蔭で随分と聞き取り難いが、微かに衣擦れの音と地面に響くような振動を感じた。  この階には2部屋しかない上、元々本物のフィリッポ達が1日貸し切っていたはずだから、一般人が紛れ込んだとは考えがたい。となれば、目的はこの部屋しかない。 「チッ、嵌められたか……」  舌打ち混じりに吐き捨てたアレッシオの言葉にトマゾの表情に苦いものが浮かんだ。  そうとしか思えなかった。  これならば、アレッシオが感じていた人の少なさも説明がつく。 そう、最初からアレッシオとトマゾを狙っての計画だったのだ。  アレッシオは、まんまと誘い出された自身の失態に歯噛みした。 3階、最奥のこの部屋で逃げ場は後ろ一面に広がる窓ガラスの向こうにしかない。 「アレッシオさん、先に行って下さい」  トマゾが愛用のデザートイーグルを片手にそう言った。  アレッシオの表情がみるみるうちに曇っていく。 「は? お前どうする気だよ」 「少し足留めしてからアレッシオさんの後を追うッス」 「それを俺が許すと思ってんのかよ、ッと!!」  影から顔だけを覗かせ隣室を探っていたアレッシオのベレッタがタァンッ、と軽い音を発する。室内に侵入を果たそうとしていた敵に向かってアレッシオが発砲したのだ。  隣の部屋から男の呻き声が聞こえ、それに続くようにパァンッ、と乾いた音が立て続けに響く。 「まぁ、許してもらえないでしょうねッ!!」  銃声が一度止んだタイミングで、今度はトマゾが銃を片手に影から狙いをつける。  ガゥンッ! ガゥンッ、と重々しい音が2発聞こえ、鼓膜がジィィンと痺れたように震えた。直後に地面に重々しい物が倒れる音を掻き消すように、銃弾の雨がアレッシオ達の隠れる隣室へ向けて放たれる。 「っ、火力からしてこっちが明らかに不利じゃねぇか」 「ははっ、そうッスね」  トマゾは笑ってはいるものの、その顔には明らかに焦りが浮かんでいた。そして、同じ様にアレッシオも焦っていた。  壁に身を隠しているものの、何時までバリケードとして保つかは分からない。それと、もう一つ懸念があった。 「お前、後何発くらいだ?」  アレッシオの問い掛けに、トマゾは苦笑いを浮かべ指を折り数えだした。 「うーん、6発あればいい方ッスね」  そう、敵がどれほどいるのかも分からない上、アレッシオ達は銃弾の弾数も限られているのだ。長引けば長引くほど、アレッシオ達には圧倒的に不利な状況だった。 「持久戦も無理、か」 「どうするッス?」  トマゾの青色の瞳がアレッシオに真っ直ぐ向けられる。  その瞬間、アレッシオの腹は決まった。  ――コイツを失うわけにはいかない……。  死んだ仲間の仇をとりたい気持ちもあるが、目の前で生きているトマゾの方がアレッシオにとっては大事だった。 「仕方ねぇ、逃げるぞ」 「了解ッス!!」  そうと決まればアレッシオ達の行動は早かった。  側にあった棚や置物を引き倒し、扉の前に更に簡易的なバリケードを築くと猛然と窓ガラスの方に向かって走った。  しかし、敵も簡単にアレッシオ達を逃がすつもりはないらしい。アレッシオの左前を走るトマゾの左足に赤いレーザーサイトが狙いを定める。 「トマゾッ!!」  気付いたアレッシオが急いでトマゾの右腕を引く、が一足遅かった。  ガゥン!!  鋭い銃声が空気を切り裂く。 「うぁ゛ッ!?」  トマゾの腕を掴んでいたアレッシオの体が、ガクンと揺れた。隣にいた筈のトマゾの呻き声が上がり、アレッシオは投げ出されるように地面に転がる。 「っ、く……おい、トマゾッ!!」  受け身をとる間もなく打ち付けた腰が痛むが、今はそれどころではなかった。  慌てた様子でアレッシオはトマゾの元へと駆け寄った。 「っ、すみませんッス……」  痛々しげに顔を歪ませながら、トマゾはアレッシオに詫びた。その左足―太股部分には銃痕があり、真新しい血を吐き出し続けている。  手当てをしてやりたいところだが、生憎アレッシオ達にはそんな時間はなかった。今、こうしている間にも敵はアレッシオ達を殺そうと迫ってきているのだ。 「こんなとこで謝んな。いいから、早く行くぞ!!」 「ッ、はい」  痛みを堪えながらトマゾが頷くのを見届け、アレッシオはトマゾの重い体を引っ張りあげる。そして、その腕を自身の肩へと回した。  幸い、窓ガラスはアレッシオの目と鼻の先。もうすぐでこのクソッタレな状況から逃げ出すことが出来る。  ズルズルと半ばトマゾを引き摺る形で窓ガラス前まで辿り着くと、アレッシオはベレッタの銃倉部分の底で窓ガラスを殴り付けた。  ガシャンッ、と派手な音を立てて窓ガラスが砕け、破片が辺りにキラキラと飛び散った。フレームしか残っていない窓の向こう側には青い海が穏やかに広がっている。後はこの縁を乗り越え、下の海に飛び込むだけだ。  高さに目が眩むが、今は緊急事態だ。アレッシオは足元から這い上がってくる恐怖をグッと堪えると腰ほどの高さの窓枠に手をかけた。 「よし、行くぞ」 「はい……」  トマゾが弱々しく頷いた時だった。 アレッシオ達の足元に何かが投げ込まれ、転がる。  丸く、黒いソレはアレッシオが過去に何度か目にしたものだ。 「な、手榴弾!?」 「ッ、アレッシオさん!!」  トマゾの悲痛な声を耳にしながらドンッ、とアレッシオは衝撃を感じた。 上半身が縁を越える。 「トマゾッ!!」  喉が裂けんばかりの声で名前を呼び、手を伸ばしたがトマゾがアレッシオの手を掴むことはなかった。 「アレッシオさん……ごめんなさいッス」  ただただ、悲しそうな青の瞳がアレッシオを見詰める中、アレッシオの体は重力に負けるように窓の外へと投げ出された。 「トマゾーーーーッ!!」  血を吐き出すような叫びを残しながら、アレッシオの身体は吸い込まれるように海へと落ちていく。  海面にぶつかる間際、アレッシオが見たものはトマゾを残したままの3階部分が爆音と共に目を焼くような閃光に飲まれる光景。その直後、凄まじい衝撃がアレッシオを襲い、アレッシオの意識は闇の中へと落ちていった。

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