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act.02

20XX年4月21日午前9時17分 イタリア プーリア州バーリ ニコロファミリー本部 「子猫ちゃん、準備はいいかい?」  ワインレッドのスーツを身に纏ったアルがアレッシオの前を歩き、一度振り返るとそう尋ねてきた。  派手な色のスーツに目が眩む。自分ではアルのように着こなせないが、アルが着るとサマになっていた。 「……なぁ、本当に考え直した方がいいんじゃないのか?」  アレッシオは緊張の滲んだ声で言った後、自身の格好を見下ろした。黒色の糊のきいたスーツは生地も高級品なのが一目でわかるほどだが、着なれていないアレッシオは居心地が悪そうに体を揺らし、アルの一歩後ろに続く。  先程が歩いている廊下には見るからに高そうな坪や花瓶などが飾られ、幾何学模様の意味のわからない絵が金の額縁に入れられ壁にかけられている。  足下も磨き抜かれた見事な大理石が敷かれ、先が見えないほどに前の方に通路が伸びていた。  ボロアパート住まいの身であるアレッシオとしては、まるで別世界のようで。大理石を踏み締める筈の足もどこかフワフワとして実感が持てないでいた。 「今更だね。君があの時了承したんだろう? それに、ボスの命令は絶対だからそこまで反対はされないよ」  栗毛色の髪を指先で弄りながら楽観的な事を言うアルをアレッシオはジト目で見詰め、溜め息をついた。先程から胸の中には不安しかない。 「……ボスって見る目無さすぎだろ」  思わずポロリとそんな言葉が口から溢れ出ていた。いや、そうとしか思えなかったのだ。  ――俺を、次期ボスに指名するなんて……。  あの日、ロレンツォにボスになって欲しいと言われた時。アレッシオは病室から廊下まで聞こえてしまうのでは、と思うような叫びを口にして驚いた。  質の悪い冗談で二人にからかわれているのではとも思ったが、2人はアレッシオを真剣に見詰め答えを待つだけで、いつまで経っても〝冗談だよ〟とは言ってくれなかった。  アレッシオが〝何故?〟と聞いた所、返ってきた答えは「ボスが指名したから」と一言ロレンツォが答えただけで詳しいことは聞かされていない。  ただ、アレッシオには〝ボス〟になる道しか残されていなかった。  だから、答えたのだ――、「なるしかねぇなら、なってやる」と。  その結果が今のこの状況だ。  体力も戻ったということで病院を退院したアレッシオは、つい2日前に自身のアパートに戻ったところだったのだが。その1日後にいきなり黒塗りの車でアルが押し掛けてきて「明日の8時半頃に迎えにくる」と一方的に用件を告げ帰っていった時は、去っていく車に向かって一発撃ってやろうかと思ったほどだ。  そして、今日。時間ピッタリにアパート前に現れたアルは律儀にも出てきてしまったアレッシオを捕まえ車の中に押し込めると、途中あれこれと寄り道をしながら本部へと辿り着いた。  寄り道している最中に「ボスは威厳がないとね?」と見るからに高級そうな紳士服の店に入れられた時は、自身のそれまで着ていた服装の情けなさに泣きそうになってしまったほどだ。  あっという間にアルによって選ばれたスーツに着替えさせられ、今は幹部会というものに参加するためにアレッシオは本部の中を歩いていた。  しかし、もう一度冷静な頭で考えてみるとアレッシオは自身が場違いであるような気がしてならない。難しい表情のまま通路を歩き続けるアレッシオの眉間をアルが指先で軽くつついた。 「眉間に皺がよっているよ、子猫ちゃん? 可愛い顔が台無しだ」 『眉間に皺なんて寄せたら駄目ッスよ〜、男前が台無しです』  何時だったか、そうトマゾに言われ同じ様に眉間をつつかれたの思い出しアレッシオはアルから距離をとるように後退りした。  不覚にも泣いてしまいそうになり、目尻に滲んだ涙を見られたくなくてツンと顔を逸らす。 「っ、可愛くなくて結構だ!! ってか、アンタは幹部なんだろ? ボスのことを止めるとかなかったのかよ」  そのまま新品の服の袖で目尻を拭うと、不機嫌さを滲ませた声で不満をアルにぶつけた。 「いや? 言ったろう、ボスの命令は絶対だってね。それに、ボスの見立ては間違っていないと思うんだ。俺は子猫ちゃんを一目見て気に入ったし。俺の下に居たんだからもう少し早く会っておけばよかったって後悔したくらいだからね」 「……それはアンタが変わってるからだろうが。つーか、気に入られても嬉しくねぇ」  これがアレッシオの率直な感想だった。だいたいアルに気に入られても、弄られからかわれるだけだと既に学習していたからだ。  一本道の通路なのだから、このまま真っ直ぐ進めば目的の場所に着くだろうと踏んでいるアレッシオはアルを追い越して通路を早足に進む。  ――アイツにいつまでも関わっていられるかよ!!  カツ、カツ、と大きな足音を響かせながら大股で歩きアルとの距離を稼ごうとしたのだが、その数秒も経たない内にアルは小走りでアレッシオの隣に並ぶと同じ様な歩幅で歩き始めた。 「酷いね。俺はこんなに子猫ちゃんの事が好きなのに」  クスクスと笑い、アレッシオをからかう余裕まであるのに対してアレッシオは精神的にドッと疲れを感じていた。  前だけを睨むように見て黙々と歩くアレッシオの頬に隣のアルの指がソッと触れる。恐らく、アルはからかうつもりで触れたのだろうが、苛立っていたアレッシオは過剰に反応しその手を叩き落とすように払い除けた。 「っ、触んなっ!!」  アレッシオとアル以外いない通路にアレッシオの声が響き反響する。  手を叩き落とされたアルはというと、ほんのり赤くなった手の甲をプラプラと揺らしながら苦笑いを浮かべていた。 「子猫ちゃんはつれないな」 『アレッシオさん、つれないッスよね』  不意にまた、トマゾの声と姿がアレッシオの頭の中に甦った。何故こんなにもアルの事が苛立たしいのだろうかと、自身でも不思議だったアレッシオだったが、今わかった。どことなく、アルはトマゾに似ているのだ。  勿論、容姿はちっとも似ていない。しかし、不意に見せる仕草や言動がトマゾのそれと重なる時がある。  だからこそ、アレッシオはアルの事を苦手に感じていたのだ。  今わかった事実にアレッシオが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていると、前の方から人影が見えた。カツカツカツカツッ、と走るようなスピードで近付いてくる人物にアレッシオは見覚えがあった。  本当は名前を呼び駆け寄りたいところだったが普段と違う雰囲気のその人物にアレッシオは戸惑いを覚えていた。  顔がわかる距離に近付くなり、その人物は焦った様子で口を開く。 「おい!! アル、早くしねーとエンツォがキレそうだ」  アルは珍しく表情を曇らせると、重たい溜め息をついた。 「あんな守銭奴は勝手にキレさせておけばいいさ。それに、アイツは新しいボスを認めてないんだろう? だったら顔合わせする必要もないじゃないか」  アレッシオは驚いたように隣のアルの顔を盗み見た。  棘のある言葉や声から苛立っている事は察していたが、アレッシオにいつも見せていた悪戯っぽい微笑みを浮かべた顔には何の感情も浮かんでおらず、恐いほどに無表情だ。  心なしかアルの周りの温度も下がった気がして、アレッシオはスーツの下の鳥肌が立った腕を擦る。それと同時にアルをここまで不機嫌にさせる〝エンツォ〟という男に興味が沸いた。  ――エンツォ、か……どんなヤツなんだ?  まだ見ぬ相手に想いを馳せていると、用件を伝え終えた男を踵を返し始めた。 「まぁ、そうだけどよ。……兎に角、俺は伝えたからな?」  そう言い残し、来た方向へと今にも走り出そうとする背中にアレッシオは今度こそ声をかけた。 「おい、パスクァーレ――」  男が振り向き、精悍な顔に人懐っこい笑みが浮かぶ。 「ワリィ、詳しい話はまた後でな!!」 「あ、おいっ!!」  大きな声でそれだけ告げると、パスクァーレはトレードマークのオレンジ色の短い髪を靡かせてあっさりとアレッシオ達の元から去ってしまった。  パスクァーレに伸ばしかけたアレッシオの手が虚しく宙を掻いて、パタリと力なく下ろされる。もう、オレンジ色の頭はアレッシオ達のずっと前の方にあり、恐らく走っても追い付けやしないだろう。  知り合いに会えてホッとしていた矢先だったことも手伝って、何となく寂しい気持ちがアレッシオの胸の中に広がっていた。それが顔にも出てしまっていたのだろうか。  ポンッ、と励ますようにアルに肩を叩かれたアレッシオは嫌な顔をすることも忘れ、隣のアルを見上げた。  先ほどとは違う、アレッシオを労るような微笑みが青色の瞳に映り込む。 「子猫ちゃん、後で会えるから心配はいらないよ。それより、これから会うやつの事を考えていた方がいい。きっとアイツの事だ、君に酷いことを言うつもりだからね」 「酷い事って……何を言われんだよ?」  アルがそこまで言うのだ。余程の事なのだろうとアレッシオは身構え、恐る恐るといったふうに聞いた。 「それはもう、あることないことネチネチネチネチ言われるのさ。子猫ちゃんもきっとアイツの煩さにはうんざりすると思うよ」  アルのうんざりした表情を見ながら、アレッシオの気力はどんどんと削がれていた。  通路を進む速度も無意識の内にゆっくりになり、このまま辿り着かなければと願ってしまう程だ。 「それは……出来れば遠慮したいんだが……」  今からでも会わなくて済まないか、と一縷(いちる)の望みを込め視線で訴えかけたアレッシオだったがアルによって儚くも打ち砕かれた。アルが歩みの遅くなったアレッシオの手を引き、通路を先程よりも速い歩調で歩き始めたのだ。  これで完全に逃げ場を失ったアレッシオは、手を振り払う気力さえなくし、ただアルの後ろに続くしかなかった。  それから早足で通路を進むこと、約3分。アレッシオとアルは通路の最奥、大きく重厚な木の扉の前に立っていた。  古めかしい木の色味が渋いその扉の先には、恐らくパスクァーレとどうやらアレッシオの事を認めていないらしいエンツォがいるはずだ。  アレッシオはゴクリと喉を鳴らした。緊張で口の中がカラカラに渇いている。  扉の取っ手に指をかけたところで、アルがアレッシオの耳元に唇を寄せた。 「俺も本当はあんな守銭奴陰険男に会わせたくないんだけどね。君がボスである限り、これから嫌でも顔を会わせなければならない機会も増えてくるだろう」  吐息がかかる擽ったさよりも、悪評ばかりを聞かされるエンツォという男とそんなにも会わなければならないのかという事実がアレッシオの気を重くしていく。 「……それは……」  〝嫌だ〟とは口にしないが感情が明け透けに顔に出てしまうアレッシオを見て、アルがクスクスと笑いを溢した。 「フフッ、君は反応が素直だね。まぁ、俺もアイツと顔を会わせるのは嫌だから子猫ちゃんの気持ちはわかるけど」  からかわれたようでなんだか面白くないアレッシオは唇を尖らせたまま扉を開けにかかった。  ――早く終わらせちまおう……。  アルにからかわれるのもこれ以上は御免だ。それにアレッシオには面倒事を早く済ませてやりたい事があった。  ギイッ、と重々しい音を立てて扉が開き、隙間から細く光が溢れる。 「……認めたくは無いけれどアイツはそこそこ有能だから、味方につければきっと役立つよ。だから、君なりに頑張って」  アレッシオの耳元でもう一度アルが囁き、男らしい硬い掌でアレッシオの背を押した。アレッシオの体が開いた扉の向こう側へ吸い込まれるように入り込む。  眩しい光に一瞬目が眩んだ。 「っ、……」  アレッシオがそろりと瞼を持ち上げると、目に飛び込んできたのはなんとも豪奢な室内の光景だった。  金とクリスタルで彩られた大きなシャンデリア、足元には毛足の長い見るからに高価そうな絨毯が敷かれ、そこに置かれた応接セットのようなローテーブルには湯気の立ち上る紅茶が3つ置かれている。  そして、その前にはスーツ姿の男が3人、革張りのソファに腰掛けていた。 「あぁ、ボス。来てくれて嬉しいよ」  そう言ってソファから腰を上げたのは病院で散々アレッシオが顔を合わせていたロレンツォだ。グレーのスーツを身に纏った彼は、長い髪を後ろで緩く束ねていてアレッシオに朗らかな笑みを向けている。 「やっぱり、アンタも居たのか」  ロレンツォがこの場にいることに対して驚きはなかった。寧ろ、白衣を着ているよりもスーツ姿の彼の方がアレッシオにはシックリときていた。 「取り敢えず、アルもアレッシオも座るといい」  ロレンツォに導かれるようにアレッシオは入り口から真っ正面に見えていた一人掛けの身体が沈み込むような立派なソファに案内される。  アルはというと、アレッシオから右手に見える3人掛けのソファの端に座りユッタリと背を預けて寛いでいた。 「で? ロレンツォ、その冴えないオッサンが我々の新しいボスだと言うのですか?」  切り出したのはアレッシオが初めて見る顔の男だった。染髪でもしているのか青色の髪は項にかかる程度の長さで切り揃えられ、彼が動く度にサラサラと揺れる。アレッシオの癖だらけの髪に比べ、実に指通りの良さそうな髪質だ。  しかし、それよりもアレッシオの目を惹いたのは不思議な色味の瞳だった。恐らく、カラコンか何かだと分かっているが赤に近いようなピンク色の瞳が、神経質そうな彼には何処と無く似合っている。  失礼な事を言われたというのに、アレッシオは男の容姿に目を奪われたままで反応をすることすら忘れていた。 「冴えないオッサン……って、子猫ちゃんに失礼な事を言わないで欲しいな。君よりずっと可愛いだろう?」  呆然としたままのアレッシオを置いて、顔の表面から感情を消し去ったアルが棘だらけの言葉を男へと向ける。  その瞬間、ピシリと空気が凍り付くのをパスクァーレとロレンツォは感じた。  案の定、静かな怒りを湛えた男のピンク色の瞳がアルを睨み付ける。 「……アル、貴方は黙っていて下さい。大体、約束の時間を2分過ぎてるんですよ? 本来なら、今すぐにでもその頭を吹っ飛ばして差し上げたいのを抑えているのですから」  などと言うわりに男の手には銃が握られていて、銃口はピタリとアルに向けられていた。しかし、アルも引く気はないのか、同じ様にスーツの内側から素早く銃を取り出すと銃口を男の眉間に躊躇うことなく向ける。 「ふん、君に頭を吹っ飛ばされるより先に頭に風穴を開けてあげようか? 君の硬い頭も、少しはマシになるかもしれないからね」  両者の間に火花が飛び散って、切っ掛けさえあれば発砲しかねない状況にアレッシオは口を開けたまま見ていることしか出来ない。  子供の喧嘩か、と突っ込みたい気分であったが2人が持っているものが玩具ではないぶん、余計に質が悪いのではなかろうか。  ――こいつら、馬鹿だろ……。  これがニコロファミリーの幹部だというのだから、更に救いようがない。止めるにもとばっちりを受けそうだったので放置しようとアレッシオが決めた矢先、体格のよいパスクァーレがアルの視線を遮るように手を広げた。 「おいおい、喧嘩は止めろって……。ほら、アレッシオが驚いてんじゃねぇか」 「……え、あぁ…」  実際は驚いていたのではなく呆れていただけなのだが、アレッシオは黙って頷くことにした。

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