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act.02
20XX年4月21日午後6時
イタリア プーリア州バーリ
ニコロファミリー本部アレッシオ自室
誰の趣味かはわからないが古めかしいアンティークの柱時計が規則正しく時を刻む音だけが室内にしていた。
アレッシオが人生初のキングサイズの高級ベッドに寝そべりながら、視線だけを時計に向けると丁度午後6時を指している。
――……トマゾ。
一人の時間が出来る度にアレッシオが思い出すのはトマゾの事だ。
本当に彼は死んでしまったのか?
実は生きていて、〝冗談ッスよ!〟と言いながら無邪気な笑みを浮かべてアレッシオの目の前に現れるのではないか?
そんな感覚が抜けきらないでいた。
――はっ、そんなこと……あるわけねぇのにな。
お伽噺や空想の中の世界ではあるまいし、そんな都合のいいことなど起こり得ない。しかし、そんな〝都合のいいこと〟に縋り付きたいのも事実。
アレッシオにとって、トマゾとはそれほど大事な存在だったのだ。
――昔は、こんな大事になるなんて思ってなかったんだけどな……。
アレッシオが思い出すのは8年程前。トマゾと初めて出会った時の事である。
当時、アレッシオは28歳で今よりも血気盛んであった。ソルジャーとしてイタリア各地に赴き、ベレッタ片手に仲間とよく暴れまわったものだ。
そんなアレッシオに初めてつけられたアソシエーテがトマゾだったのだ。
最初は今のように決して〝良好な仲〟とは呼べず、事ある毎に噛み付かれていた。意見の衝突など日常茶飯事。寧ろ、無いことの方が珍しく、血気盛んな年頃だったのもあってアレッシオもトマゾも口より先に手が出て、殴り合いに発展することも多かった。
きっとその頃のトマゾは人を信用出来なくなっていたのだろう。
手負いの獣のようにいつもギラギラとした瞳を周りに向け、威嚇しているような印象が今も強くアレッシオの頭の中に残っている。
そんな関係が変わったのは、いつ頃だっただろうか?
トンッ、とアレッシオは頭の横を指で弾き思い出す仕草をした。
――そうだ、カポの命令でバッティスタの子飼いのブローカーを始末しにいった時だ……。
靄が掛かっていたような思考が急速にクリアになり、アレッシオの脳内に灰色の光景が甦る。
埃っぽい廃墟の中、アレッシオは額の汗を拭いながら機を待っていた。その足元ではトマゾが腹部を押さえ踞り、口からは荒い息を溢している。顔は苦痛に歪み、噛み締められた唇が痛々しく血を滲ませていた。しかし、それよりも腹部から滴る血の方が問題だった。
「おいッ、死ぬんじゃねぇぞ!!」
「ッ、ぐ……誰が、死ぬかよ……」
強がりでそうは言うもののトマゾの状態は決して良くない。いや、最悪といってもいい部類だ。
腹部を押さえている手は真っ赤に染まり、止まる様子のない血が地面に滴り続けている。顔からも血の気が失せて脂汗が滲んでいるのがアレッシオの目にもはっきりと確認できた。
――マズいな……急がねぇと出血量が多すぎる。
直ぐにでもトマゾを医者に見せた方がいいのだが、そうできない理由があった。
アレッシオ達が身を隠す柱に銃弾の雨が降り注ぐ。いくら身を隠しているとはいえ、遮蔽物にも限界があるわけだから、アレッシオも無傷とはいかなかった。銃弾が左腕を掠めたのか、抉られたような傷がシャツの裂け目から覗き、服を赤く染めていた。幸い、といっていいかは分からないが利き手でなかったのが唯一の救いだ。
痛みで散々になりそうな思考をなんとか繋ぎ止めながら、何か状況打開のためのヒントはないかとアレッシオが辺りを注意深く見回した時だった。
「……なんで、…俺を……助け、たんだ…よ……」
苦し気なトマゾが赤色に染まった唇を皮肉げに歪ませて、そう尋ねてきた。
「あ゛? んなの、知らねぇよ。勝手に体が動いちまってたんだよ」
こればかりは本当だった。
気付いたら勝手に体が動いていた。アレッシオも自身にこんな行動力があったのかと驚いているほどだ。
「ハッ、……馬鹿、だろ、アンタ……。俺を助ける……なんて、態々……死にに来たようなもんだぜ……」
嘲るようなトマゾの笑みが耳障りなアレッシオは眉間に皺を寄せ、足元のトマゾを睨み付ける。
「うるせぇ、気が散るから黙ってろ」
貧乏くじを引いたことは随分前に分かっている。それでも、憎たらしい部下でも、目の前で死にそうな姿を見せられたら放っておけなかった。つくづく甘い、とは思うものの見殺しにして胸糞悪い思いをするよりはずっとマシだ。
「……放って、…逃げればよかったんだよ……この、お人好しが……」
「お人好しでも何でも構わねぇよ。いいからお前は黙ってろ。じゃねぇと、出血多量で死ぬぞ」
「……チッ……分かった、よ…」
弱々しいトマゾの声にアレッシオは不安を駆り立てられる。
アレッシオは、酷く焦りを感じていた。
――クソッ、どうしたら……。
いっそ、自身の運に任せるか、などと馬鹿げた考えがアレッシオの頭の中を過った時だった。それまでアレッシオ達を執拗に狙っていた銃弾の雨がピタリ、と止んだのだ。
恐らく、弾切れを起こしたのだろう。離れた場所で敵の焦るような声がアレッシオの耳に聞こえた。
このチャンスを逃すアレッシオではない。
直ぐ様にベレッタを構え直すと、柱の影から踊り出た。そして、トリガープルに指を掛け標的を定めるなり発砲していく。
タァンッ! タァン、タァンッ!!
アレッシオは止まることなく足を動かし、柱に隠れては踊り出て発砲を繰り返す。位置を掴ませないためだとはいえ、アレッシオの息は苦しい程に上がっていた。
やがて――、アレッシオが全ての弾を撃ち切る頃。辺りは硝煙と濃い血の匂いに満たされ、沈黙した。
バクバクと煩い心臓を服の上から押さえながら、アレッシオはトマゾの元へ急いだ。
「おいッ、生きてるか!?」
アレッシオの呼び掛けに、閉じられていたトマゾの目蓋がピクリと震えた。ゆっくりと持ち上がり、海のような深い青の瞳が焦点を結ぶ。
「………う…っせぇ……」
危険なのは違いないが、憎まれ口を叩くことは出来るようだ。
「あー、はいはい。煩くて悪かったな。ほら、今から医者呼んでやるから死ぬんじゃねぇぞ」
「誰が、死ぬ…か……」
その後、直ぐに駆け付けた味方によって無事に病院に運び込まれたアレッシオとトマゾは大きな怪我を負ったものの命に別状はなく、3ヶ月程で仕事に復帰した。
復帰した後、アレッシオが一番驚いたことと言えばトマゾの事である。
それまで、犬猿の仲といっていいほど険悪であったのに、復帰後初めて顔を合わせた時には「あ、アレッシオさん!!」と飼い犬のように擦り寄られた。
最初はからかわれているだけかと思っていたアレッシオだが、結局その後もトマゾのその態度は変わることがなく、気が付けばそんな彼の態度にもアレッシオは慣れてしまっていた。
――本当に変なヤツだった……。
なついたトマゾは端から見てもアレッシオにベッタリで、何処に行くにも付いてきた。
しまいには、「好きです。大好きです」と言い寄られ、最初は断り続けていたアレッシオだったがその執念ともいうべきしつこさに負けた。
1回だけのつもりが、2回、3回と体を重ね。気が付くとアレッシオもトマゾにハマっていた。身体だけのつもりが、いつの間にか心も捕らわれていたのだ。
寝返りを打ち、仰向けで天井を見詰めたアレッシオの瞳に薄い涙の膜が張る。
「アレッシオさんッ!」と呼ぶあの声も、自分だけに向ける少し幼い感じの笑みも。もう聞くことも、見ることも叶わない。
――もっと甘えさせればよかった。もっと、名前を呼べばよかった。もっと、もっと、抱き合って互いの熱をわけあえばよかった。
後から後から沸いてくる後悔は際限がなく、アレッシオの心を重くさせ、呪縛のようにキリキリと締め上げる。
「クソッ……」
自身に向けてか、それともここにいないトマゾに向けてか。どちらともとれる悪態がアレッシオの口から溢れる。
滲んだ涙がアレッシオ自身の弱さを物語っているようで。アレッシオは皺になるのも構わずスーツの袖口で乱暴に拭った。
こんな日は、早く熱いシャワーでも浴びて頭の中を空っぽにして眠るに限る。
ベッドの上で今日のこれからの予定を組み立てているアレッシオの耳に、コンコンッ、と軽いノック音が聞こえた。
「子猫ちゃん、いるかい?」
扉の向こう側からアルの声が聞こえ、アレッシオは慌ててベッドから飛び起きた。
「あ、あぁ……」
「そうかい。では、入ってもいいかな?」
アルの言葉にアレッシオは一瞬考えこむ。正直、こんな弱っている自身を見られたくないこともあって入ってきてほしくなかった。しかし、彼らはニコロが戻るまでの繋ぎであろうアレッシオをどうにでも出来る立場にいる。
もし、今ここでアレッシオが断ってしまえば、今後のことに弊害があるかも分からない。
暫しの瞬巡の後、アレッシオはふかふかのベッドに足をとられながらも立ち上がると扉の前へと移動した。
「……何の用だよ?」
ノブに手を掛けながらアレッシオが問い掛ける。
「いい酒が手に入ったんでね。君の引っ越し祝いに一緒に飲まないかい?」
扉の向こう側でちゃぷんっ、と水を揺らしたような音がした。恐らくアルが持っているワインのボトルを揺らしたのだろう。
〝いい酒〟と聞いて、アレッシオの気持ちはすでに傾いていた。卑怯な気がしたが、今だけは酒の力を借りて忘れるのも悪くないかもしれない。
「……入れよ」
アレッシオがぶっきらぼうにそう言い扉を開けると予想通り、アルが片手に濃い緑のボトルを片手に持って笑っていた。
「ありがとう、子猫ちゃん」
アルが部屋に入ってくると、ほんのりとホワイトムスクの香りがした。トマゾと似た部分ばかりに気をとられていたアレッシオだったが、どうやらアルの香りの好みは違うようだ。
――……別人に何求めてんだか。
無意識の内に、トマゾの代わりをアルに求めていたのかもしれない。
そんな馬鹿な考えすら浮かべてしまう自分自身にアレッシオが自嘲の笑みを浮かべていると、心配そうに瞳を揺らすアルに肩を叩かれた。
「子猫ちゃん? どうかしたのかい?」
尋ねられたものの、〝トマゾの代わりをアンタに求めていた〟なんて言うことが出来ないアレッシオは「いや、別に……」とだけ口にすると、弱々しく頭を横に振る。
「……塞いでいるように見えるよ」
「……ッ」
図星を突かれ、アレッシオは押し黙った。今は何を喋っても裏目に出てしまいそうだ。その上、相手は頭のキレるアルなのだ。黙っていた方が余計な詮索もされずに済む。
アレッシオは、フイッ、とアルから顔を背けた。早くワインでも何でもいいから飲ませて、この部屋から叩き出してしまおうとの算段だった。
しかし、アルはやはりそんなアレッシオの心情を見抜いていたのか。アレッシオの手首を掴むと、そのまま自身の方へと引き寄せた。
「……子猫ちゃん、今だけは全部忘れるといい。俺が、忘れさせてあげるよ」
迫る唇に、頭の中をトマゾの顔が一瞬よぎる。アレッシオの中に湧きあがったのは罪悪感だった。
「ッ、……やめろって!!」
腕を突っぱね顔を反らしアルから逃れようとするのだが、アルはビクともしない。それどころか、「やめないよ」と心の隙に付け込むような甘く優しげな笑みを浮かべて、整った指先でアレッシオの手首や唇をゆるゆると刺激してくるのだ。
流されては駄目だ。
そう思うのに、刺激に飢えていた肌は砂漠の砂が水を吸うように貪欲にアルから与えられる感触を受け入れている。
こんな時ばかりは、自身の体が恨めしく感じる。
「っ、……酒、飲むんじゃなかったのかよ……」
意識を逸らそうと話題を振ってみたアレッシオだが、相手は一筋縄ではいかないようだ。
「酒なら、何時でも飲めるだろう?」
自分から持ってきたクセにと文句をぶつけたくなったが、指の腹で擦られる唇が痺れて上手く言葉にならない。
アレッシオは何とか逃れようと身を捩りながら掠れた声をやっとの思いで絞り出した。
「いい酒、なんだろ……俺は、今飲みてぇ……っ」
これでアルが引かなければアレッシオは突き飛ばしてでも逃げるつもりだったのだが、意外にもアルはアッサリとアレッシオから離れてしまった。
――何だか拍子抜けで、納得がいかない。
アレッシオが思案顔を浮かべていると、ニタリと口角を嫌な感じに上げたアルの姿が映った。
「なら、いい方法がある」
そう口にするアルの姿にアレッシオは嫌な予感しか覚えない。
露骨に嫌そうに顔を歪め後退りをしていると、唐突に抱えあげられてしまった。
アレッシオが唖然としたのは一瞬のことで、アルによって担がれていると理解するや否や手足をばたつかせて抵抗した。
「っ、おろせッ!!」
「暴れないでくれ、子猫ちゃん。君をバスタブに運ぶだけだから」
アレッシオにしてみれば無茶苦茶に暴れているつもりなのだが、アルの拘束は一向に緩む気配がない。
それどころか、成人男性一人を抱えているというのにアルの足元は時折フラりとぐらつくくらいで平然と歩いているのだ。アレッシオがどれだけ暴れたとしてもきっとアルは目的を完遂させる事が出来る。
アレッシオは不機嫌な表情のまま振り上げていた手を下ろした。抵抗するだけ無駄だと悟ったのだ。
アルに担がれながらアレッシオは室内を横切る中、先程アルが口にした目的地に今更ながらに首を傾げていた。
酒を飲むからと入室を許可したのに、バスタブがどう関係してくるのだろうか。
気になり出したら止まらないアレッシオは早々にその疑問を解消すべくアルに訊ねた。
「ってか、なんで俺はバスタブに連れていかれるんだよ」
「ん? 一緒に風呂に入ろうかなと思ってね」
「誰もお前と入るなんて言ってねぇだろ」
返ってきたアルの答えにアレッシオはガックリと項垂れた。会話が通じない事が、こんなにも疲労感をもたらすものだと今日初めて知った気がする。トマゾも割りと人の話を聞かない部類ではあったが、アルほど酷くはなかった。
「俺は子猫ちゃんと入りたいんだけどな」
近い距離で聞こえてきたアルの楽し気な声にアレッシオは溜め息で返すと、されるがままバスルームへと運ばれていった。
「で、こんなとこで一体何おっ始める気だよ?」
足をゆったりと伸ばせるほど広い白のバスタブの中に下ろされたアレッシオはアルに尋ねると、アレッシオが持っていたワイン瓶を手にしたアルが不敵に微笑んだ。
「それはね、こうするのさ」
「は? ――うわっ!?」
アルは言うなりワインを徐に開け、こともあろうかその中身をアレッシオに浴びせかけたのだ。これには流石にアレッシオも驚き、バスタブの中で立ち上がった。
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