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act.03 La coda al gatto―猫の尻尾―

20XX年4月23日 午後3時 イタリア プーリア州レッチェ 「また、来る事になるとはな……」  アレッシオの苦み走った声が、レッチェ独特の白い石灰岩混じりの建物に囲まれた人気の疎らな通りに響く。  夜の遅いレッチェでは、街が賑わいを見せるのは夕方から夜にかけてだ。今の時間帯は、誰も彼もが夜に備え家や店内で個々時間をゆったりと過ごしているのだろう。街自体もこれから来る夜に備え、休息をとっているような、そんな錯覚すら覚える中。揃いも揃って不機嫌面ばかりを引っ提げた3人組が、銘々の歩調で通りを歩いていた。勿論、アレッシオがその中の1人だ。  白く明るい街並みの頭上には、気持ちのいいほど青く高く澄んだ空が広がり、絶好の観光日和だというのに、アレッシオの表情は晴れない。それも、そのはず。同行者として付いてきた2人に問題があった。 「どうせだったら、子猫ちゃんと2人きりで来たかったんだけどね。エンツォ、君……邪魔だよ」 「私だって、貴方達と共に居なければならないのは苦痛です。なんだって、こんな……」  先程……いや、バーリを出発する時から、アルはアレッシオに体を寄せるようにくっ付きながら、ことある毎にアレッシオの前を足早に歩くエンツォに突っかかるのだ。  無視をすればいいものの、アルの嫌味に一々反応するエンツォもエンツォである。  その度に、不毛な言い争いになり。挙句、銃まで持ち出そうとするので止めなければならないアレッシオの身としては、堪ったものではなかった。  ――というか、この人選間違ってるだろ……。  最早、仲裁で疲れきったアレッシオは睨みあいを続ける2人を止める気力すらなく、内心でこの人選をしたロレンツォに恨み言をぶつけていた。  そもそも、レッチェに再び足を運ぶ事になったのは、アレッシオ達を襲撃した者達の足取りを掴むためである。  2日前、アルとの情事の最中に現れたエンツォがアレッシオにした話とは、今後の予定についてで。当面の目的はボスを襲撃した者達を捕まえる事だというのは理解していたアレッシオだったが、その話し合いの中でエンツォからもたらされた情報は思いもよらないものだった。    なんでも、オルソやパスクァーレが動いた結果。手口や情報工作の癖からするとボスとアレッシオ達を狙った者達は同一グループであるという線が濃厚らしく。  そうであるから、襲撃現場であるホテル《ディ・マーレ》にもう一度足を運ぶ、ということになったのだ。  勿論、最初はアレッシオ1人で向かうつもりでいたのだが。 「仮にも、子猫ちゃんは今はボスなんだから。1人で危険な場所には向かわせられないよ」  と、アルは強引にくっ付いてきてしまった。  もう1人の同行者であるエンツォは、というと。彼は元々同行する予定はなかったのだが、タイミングが悪いことにレッチェに行く用事が出来てしまったらしい。  それならば、とロレンツォはなんの親切心かは知らないが、3人分のレッチェ行きの旅の用意をしてくれ。断る暇すらなく、アレッシオは車で駅まで連れ出されてしまった。  そのまま、あれよあれよと流され。気が付くと、エンツォとアルも揃っており。珍妙な顔つきの二人と不機嫌な一人を乗せ、レッチェ行きの列車は滞りなく発車した。  退屈且つ、変に重苦しい空気の列車内で長すぎる沈黙に耐え切れず、アレッシオはエンツォに「何の用事だなんだ?」と聞くと、彼は至極面倒くさそうに口を開いた。  棘を多く含む言葉ばかりであったので、その多くは割愛するが。彼は表向きはバーリに本店を持ち、イタリア南部を中心に数十店支店を持つ“カルティオーネ銀行”の頭取で。起業者である彼の先先代から、ニコロファミリーと裏で深い繋がりを持っているのだそうだ。  今回の用事、というのも。レッチェにある支店で、問題が起こったからだと言っていた。  “問題”と一口に言っても色々あるわけで。そうであるから、アレッシオは気になり「どんな問題だ?」と、彼がどんな人物であるかも忘れ、好奇心に誘われるまま突っ込んだ質問をした。  すると、返ってきたのは冷たい視線と「貴方に話したところで、理解できると思っておりませんので。話す気がありません」と、なんとも失礼な言葉だった。  ――思い出してたら、ムカついてきた……。  一々、人を貶すような台詞を入れなければ会話が出来ないのか、とエンツォに文句の一つでもぶつけたいところではあるが、ここでアレッシオがそれを言った所で新たな火種が出来るだけ。エンツォがそれを改めるとは思えない。つまりは、言うだけ労力の無駄である。  そんなこんなで、レッチェに着いてからというもの仲裁以外で口を開く事を極力控えていたアレッシオは、今日何度目になるか分からない溜息を溢した。 「ガッティーナ、そんなに溜息を吐いていると、幸せが逃げていってしまうよ?」 「辛気臭いですね。こっちにまで辛気臭さが移りそうなので、止めていただけませんか?」  2人別々の反応に、アレッシオは疲れた表情で空を仰ぐ。もう、返事をするのでさえ面倒臭く思えてしまった。  ――早く、ホテルに行きてぇ……。  アレッシオの原動力となり、止まりそうになる足を進められているのも。ホテルにさえ行けば、この2人と一時的とはいえ、離れられるからだ。  しかも、なんと言っても、ニコロファミリーの幹部――ロレンツォが手配したホテルだ。きっと一流の、それもアレッシオが一構成員であった時では到底泊まることの出来なかった、それはそれは豪華なホテルに違いない。  膨らむ妄想に、アレッシオの疲れはてていた顔に幾分か笑みが戻る。上質な柔らかいベッドが待っていると思うと、この苦行にもどうにか堪えられそうだった。 *************************** 20XX年4月23日 午後3時57分 イタリア 南端レッチェ カルティオーネ銀行近く、ホテル《ウーノ》  アレッシオは、ただただ呆然と目の前のホテル《ウーノ》と書かれた建物の外観を眺めていた。自分は、白昼夢でも見ているのだろうか、と自身の頬を抓ってみたりもしたが、抓った箇所がひりひりと痛むばかりで、目の前の光景はちっとも変わることがない。いや、寧ろ一層酷く見えてくる。 「……これ、どういうことだよ……」  アレッシオが隣に並ぶアルを睨みつけても、返ってきたのは、なぜアレッシオが怒っているのか分からない、といった不思議そうな表情だった。  やはり、自分は騙されていたのだろうか?  組織にいらなくなった自分を、始末するためにここまで連れてきたのではなかろうか?  そんな疑心暗鬼に駆られていると、何時までもホテルの中に入ろうとしないアレッシオを訝しく思ったのか。エンツォが苛立った声を上げた。 「いつまで間抜け面でそこに立っているつもりなのですか? 店の迷惑です。さっさと中に入ってください」 「いや、でも……」  言い方は腹が立つにしろ、確かにエンツォの言う事は正論だ。アレッシオとしても、何時までもホテルの前で突っ立ているのも嫌なのだが、どうしても体自体が入りたくないとでもいうように拒否してしまっている。  それもそのはず。アレッシオ達の目の前のホテル《ウーノ》は、幽霊屋敷かと思うほどにボロッちい外観をしていたのだ。  レッチェ特有の真白い壁は、汚れかなにかで煤けた灰色に変わり、大事には至らないもののところどころ壁が剥がれ掛けたような部分もある。  天気が良いというのに、全て締め切られている窓の向こう側は、カーテンらしき白い布切れがカーテンレールに引っ掛かっており、その隙間から暗い室内がぽっかりと口を開けたように広がっているのが見え、アレッシオの背を薄ら寒いものが駆け抜けた。  正直、前回トマゾとと共に泊まっていた安宿のほうが、マシに思えるレベルだ。 「いいから、入ってください」 「ちょ、引っ張るなって!!」  それでも中々入ろうとしないアレッシオに焦れたエンツォが、アレッシオの襟首を掴むとそのまま強引に中へと引きずり込んだ。   古めかしい木製の扉の上のドアベルが、チリンッと可愛らしい音を立てる。 「……中は、……意外とマシなんだな……」  室内に強引に引きずり込まれたアレッシオはというと、襟首を掴まれている事すら忘れ、ホテルの内装を驚いた表情で見渡していた。  外観が酷かっただけに、内装も相当酷いのだろうと勝手に思っていたが、中は温かなマホガニー色で統一され。そこかしこに、古めかしいものの一目で逸品であるとわかるアンティーク家具の数々で飾られていた。  頭上には、室内灯の明かりを反射して煌く大きなシャンデリアが下がっており、それこそ古きよき時代の貴族の邸宅を思わせるような煌びやかさが、そこにはあった。 「アレッシオ様、エンツォ様、アルドロヴァンディーニ様。ようこそ、いらっしゃいました」  柔らかな声にアレッシオは、入ってすぐ右手にあるフロントから、顎にたっぷりと白い髭を蓄えた初老の男が顔を覗かせていることに気が付いた。  恐らく、彼がここのオーナーなのだろう。先程のドアベルで気が付き迎えに出てきてくれた彼は、糊のきいた白シャツにベージュのベストといったラフな格好で、にこやかな笑みを浮かべていた。  その彼が、フロントの中から確かな足取りで出てくる。と、それまでアレッシオの襟首を引っ掴んでいたエンツォはアレッシオを放り。彼の傍へと近寄ると、ハグを交わした。  互いの頬に唇を寄せ、挨拶を交わすその姿は今日始めて会ったとは思えないほどに親密で。アレッシオは、ポカンと口を開けたまま2人を見ていた。 「すみません、ダリオ顧問。前日に連絡したにも関わらず、快く迎え入れてくださり感謝致します」 「いえいえ、私と貴方がたの仲ではありませんか。どうぞ、お気になさらずゆっくり寛いでいってください」  一ホテルのオーナーに対して丁寧すぎるほどの言葉遣いをするエンツォに、アレッシオが違和感を抱く前に、優しそうなダリオと呼ばれたこのホテルのオーナーは、今度はアレッシオの後ろに立っていたアルに向かって口を開いた。 「アルドロヴァンディーニ様、――いや、アル坊とでも言ったほうがいいかな? 久々に来たのだから、挨拶くらいはしてくれるのだろう?」  悪戯っぽい響きの声で、おどけた様子の彼を見て、アルは肩を竦める。 「ダリオ顧問。あんまり、俺を苛めないで下さいませんか? それに、アル“坊”って止めてくださいよ。アレッシオに笑われてしまいます」  これまた親しげな2人の会話に、アレッシオは完全にわけが分からなくなっていた。  「え? どういうことなんだ? 2人とも、知り合いなのか?」  後を振り返り尋ねると、アルは笑顔のまま。あっさりと教えてくれた。 「知り合いもなにも、ダリオ顧問は“元”ニコロファミリーの人間さ。確か、ボスの先代が仕切っている時に現役だったんでしたっけ?」 「まあ、ね。でも、昔の事さ。今は、しがないホテルのオーナー兼従業員だよ」  そう言って、はは、と朗らかな笑みを浮かべる彼はどう見ても“いいお爺さん”にしか見えないのだが、よくよく観察してみると裏社会で生きてきた人間特有の雰囲気といったものが、僅かに滲んでいる気がする。   血の掟ーオメルターによって、組織を抜けることは困難ではある。が、ニコロファミリーは、動けなくなった人間をずっと組織に縛り付けるような非人道的な行為はよしとしていない。そういった者達は何らかの役職や名誉職に付け、穏便に組織を抜けられるようになっているのだ。  勿論、組織に害を為す存在だと判断されたのならば、消されるだろうが。裏を返せば、それさえ守っていれば穏やかな余生を過ごす事も可能なのだ。  恐らく、ダリオもそういったクチの人間なのだろう。    ――なるほど、……ロレンツォの野郎、経費ケチりやがったな……。  アレッシオがそう思うのも、無理はなかった。  ニコロファミリーの関係者の経営する店であれば、多少の融通は効く。それに、普通の宿に泊まるよりも諸経費も少なく済む。  ――あとは、牽制も兼ねてんだろうな。  エンツォやアルが信頼と尊敬をおくダリオに限ってなさそうではあるが、全ての者がダリオのようにファミリーとの友好な関係を保ったままでいるとは限らない。人間個々に思考する力があるだけに、当然中にはファミリーを裏切る者もいる。  それを未然に防ぐため、或いはいち早く気が付く為に、こうやってファミリーの者を向かわせて牽制したり、探ったりするのだ。まあ、今回に限ってはアレッシオの御披露目、といった意味合いの方が強いのだろうが。  改めてアレッシオは目の前の好好爺を見る。彼は親しげにアルと談笑していた。 「何を言っているんですか。ご冗談もほどほどになさって下さい。今も、その腕は衰えてないんじゃないですか?」 「いやいや、もう腰や目がね。箒やはたきよりも重いものは持てないよ」  アハハ、と人好きのする笑みを浮かべるダリオは、どこからどう見てもただの気のいい老人にしか見えないのだが、ちらと見えた彼の掌は分厚く、引き攣れたような傷痕が幾つもあった。  ダリオとの会話が済み、アレッシオの傍に戻ってきたアルが腰僅かに屈め、アレッシオの耳に唇を寄せる。 「ダリオ顧問はああ言っているけれど、本当に凄いんだよ。俺は、彼から銃を習った口だからね。断言できるよ」 「へぇ、そんなになのか……」  純粋に驚いたアレッシオは、深い海のような色の瞳を皿のように丸くして、ダリオを見た。  アルの銃の腕前は見た事がないから分からない。が、彼の愛銃であるコルトガバメントM1911のカスタム具合とよく手入れされた銃身からみるに、悪くない腕前だろうと判断できる。そんな彼が、ここまで言うのだから、ダリオは相当な使い手だったに違いない。  そんな事を考えていると、エンツォの不機嫌そうな顔がアレッシオの方を向いていた。  ――ああ、これは小言を言われるな。  アレッシオがそう思ったのも束の間―― 「アレッシオ、目上の方にはそれ相応の態度で接してください。彼は先代のカポレジームでもあるんですよ」  冷ややかな視線と、視線に負けぬ冷たい声を浴びせられ、アレッシオはうんざりといった表情を浮かべた。  確かに、目上の者に対する礼は欠いていたかもしれないが、それにしたってこの言い方はないのではなかろうか?  そういった不満があったのだが、口にしたところでまた嫌味を言われるだけだ。 「わ、悪かったよ」  アレッシオとしては、まったくもって不本意なのだがそう言うと、ダリオは気にした様子もなくからからと笑った。 「いえいえ、お気になさらずに。今は、ただの爺さんですから」 「ダリオ顧問、それはいけません。こういうことはきっちりと――」  またしても始まりそうな小言に、アレッシオが耳を塞ごうとしていた時だ。いつの間にか移動していたのか、アルがエンツォの傍に立ち。そうして、含みのある笑みを浮かべエンツォの肩を指先でトントン、と叩いた。 「エンツォ、君は銀行の方に行かなくていいのかい?」  犬猿の仲であるアルに肩を叩かれ、不機嫌そうな表情を浮かべていたエンツォだが、アルの一言を耳にした瞬間、弾かれたように自身の腕に嵌めた、見るからに高級そうな時計を確認していた。  ほんの数秒前まで澄ましていた顔に、焦りの色が浮かび、チッ、と彼らしくない舌打まで聞こえた。彼の様子からするに、恐らく時間ギリギリか、はたまた間に合わないかのどちらかなのだろう。 「ッ、貴方がたから目を離すのは不安ですが、時間ですので行って参ります。くれぐれも、ダリオ顧問にご迷惑をかけないようにして下さい」  薄い紺のスーツと首元に巻いた白のストールを翻し、先程潜ったばかりの玄関扉の前まで慌しく向かったエンツォは、宿を出る間際振り返ると眼光鋭くアレッシオとアルを睨みつけ、きっちりと釘を刺していった。  途端、静かになったロビー内で、アレッシオは大きく溜息を吐く。あんなに口煩いのに張り付かれていては、ストレスが溜まって仕方がない。 「子猫ちゃん、大丈夫かい?」 「大丈夫なわけないだろ。なんであんなに口煩いんだろうな。てか、俺目の敵にされてるよな……」  アレッシオが口を開けば、ここぞとばかりに嫌味が返ってくるのだ。これを目の敵にしている、と言わず何と言おうか。 「仕方がないよ。エンツォは、ボスに心酔してたからね。子猫ちゃんのことも、まだ受け入れられないんだよ」    そうは言うものの、アルから見てもエンツォのアレッシオに対する辛辣な態度はやはり度が過ぎていると感じるのか。紳士然とした端正なその顔には、苦笑いが浮かべられていた。 「それは、何となくわかるけど……だからって、あの態度はないだろ」  アレッシオにも、エンツォの気持ちは僅かばかりなら分かる。彼と同じ立場であれば、アレッシオも少し前まで一構成員でしかなかった者がボスになるなど、考えられないし。もしそれが本当になったとしても、到底受け入れられるものではない。  ――まあ、理解できるからって、ムカつかない理由にゃならねぇんだがな。  だいたい、受け入れられないからといって、あのような態度を取るのは大の大人として如何なものだろうか?   ――あ、いかん。思い出したら腹が立ってきた。  アレッシオが苛立った表情でエンツォが消えていった扉を見つめていると、背後からダリオの穏やかな声が耳に届いた。 「すみませんね。あの子も、結構複雑でして。けれど、根は素直で仲間想いのいい子だから、徐々に理解してやってくれると僕としても嬉しいですよ」  親よりも歳の離れた彼からすると、アルもエンツォも我が子のようなものなのだろう。ダリオの声には、親が子に向ける慈愛に近い感情が滲んでいた。  だからこそ、ダリオの目の前で“無理だ”、とは言えず。かといって、“分かりました”と確証することも出来ないアレッシオは―― 「あー、まあ、努力はしてみます……」  と、なんとも曖昧な返事をしたのだった。  しかし、ダリオにはその答えで十分だったのか。皺の多いその顔に、満面の笑みを浮かべていた。 「ありがとうございます。ああ、僕とした事がすっかりお引止めしてしまいすみませんね。お部屋は2階の205号室から207号室の3部屋です。お食事は、どうされますか?」  ダリオがポケットから取り出した鍵を受け取りながら、アレッシオはアルの方を見る。どうする? とでも言いたげなその視線に、アルはパチンとウインクで返すと、口を開いた。 「食事は、情報収集がてら外で摂ってきますよ。それに、レッチェの街並みも見てみたいですし」 「分かりましたよ。アル坊、お酒はほどほどにして下さいね?」 「だから、ダリオ顧問。アル坊は止めて下さいって」  心底困ったアルの表情からするに、相当にアル“坊”呼びは嫌なのだろう。 「あはは、すまないね。若い子を見ると、こう。ついついからかいたくなってね。それでは、ごゆっくりお寛ぎ下さい」  ダリオはそんなアルを軽くいなし、柔和な笑みでそう言い残してフロントの奥の扉の向こうへと消えてしまった。 「まったく……」  アルが、ダリオの背中を見送り終わった途端に、疲れの滲んだ顔で溜息を吐き出す。いつも、余裕ぶった笑みかエンツォに向ける嫌悪や怒りの表情しか見た事がなかったからか。ダリオと共に居る時のアルの表情は、アレッシオにとって新鮮だった。  それに、いつもアルに言い負かされているアレッシオとしては、1つからかうネタが出来て嬉しい限りだ。ニヤニヤと肉厚な唇を弧の形にしならせ、アレッシオは自身から彼に近づき。そうして、アルの脇腹を肘でつつく。  「アンタが言い負かされてんのって、珍しいな」 「そうだね。ダリオ顧問には昔から世話になっている上に、色々と知られてしまっているから、どうにも勝てないんだよ」  肩を竦めるアルの言動には、ダリオに向ける親への情のようなもの感じられ。彼とダリオの関係性とその絆の深さが、第3者であるアレッシオにも伝わってくるようだった。  裏社会に属している大半の者は、けっこうな確立で複雑な生い立ちを抱えていたりするものだ。だからこそ、身内と認めた者を大事にする傾向にあるし、身内を傷つける者にはどこまでも非情になれる。 「育ての親、みたいなもんなんだろ? だったら、勝てるわけがねぇな」 「ああ。君はそんな人はいないのかい?」  アルの何気ない問い掛けに、アレッシオは渋い顔をした。勿論、アレッシオにも育ての親となってくれた者は居たには居たのだが、ダリオとアルとの関係性とは随分違っていた。  その上、長い年月を経て薄れきってしまった記憶では、もう彼の顔や声を思い出すことでさえ難しい。 「俺は……、忘れちまった。居たような気もするし、居なかったような気もすんな」  濁した答えに、アルの眉が軽く中央に寄った。 「……すまない、嫌な事を聞いたね」  同情の滲む声音に、むず痒さと複雑な感情を覚えたアレッシオは、場の雰囲気を変えようと、殊更明るい声を上げた。 「気にするなよ。それより、さっさと荷物部屋に置いて、飯食いに行こうぜ。腹減ったわ」  荷物を片手に、アレッシオは言葉通りさっさと2階への階段を上っていく。くぅくぅと鳴く空腹の腹を空いた片手で撫で、宥めてはいるがそれも限界に近い。それもその筈、朝早く叩き起こされ朝食も碌に摂っていなかった上、列車の中でもエンツォとアルの仲裁に忙しく、とてもではないがゆっくりと食事をする暇もなかったのだ。 「了解。腹ペコの子猫ちゃんをあまり待たせるのも可哀想だから、急ぐとするよ」  一足先に階段を上りきってしまったアレッシオの背を追うように、アルもまた古くとも艶の美しい木製の階段に足をかけるのだった。

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