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act.03

20XX年4月23日 午後5時15分 イタリア南端レッチェ  ジョゼッキア通り オステリア《ステッラ》店内  あの後、205号室と206号室に荷物を置いたアレッシオとアルは、ぶらぶらとレッチェの街を散策したその足で、オステリア《ステッラ》と書かれた看板の下がる店内へと足を踏み入れていた。  店内に入った当初は、軽食を摂り、夕食は豪華にリストランテにでも行こうか、との話をしていたのだが。アルが息をするかの如く自然にワインを頼んでしまい、当然、酒の好きなアレッシオがそれを見ているだけでいられるはずもなかった。  まだ客の疎らな内からチーズを肴にちびりちびりとレッチェ名物のロゼワインを舐めるように飲んでいると、用事を終えたエンツォも何故か合流し。結局、なし崩しでこの場所で夕食を摂ることになってしまった。  白のテーブルクロスの掛けられた丸テーブルに、男3人顔をつき合わせ座っているという、なんともむさ苦しい絵図。そんな中でアレッシオはうんざり、といった表情で、これまたレッチェ名物のオレッキエッテパスタにたっぷりとトマトソースの掛かった物をフォークで突き刺しながら、左隣に座るアルに話を振った。 「なあ、あの席の女の子達可愛いと思わねぇか?」  そう言って、顎しゃくって指し示したのは店内奥に陣取るアレッシオ達から離れた窓際――大きなガラス窓から赤く染まった街並みと通りを見る事が出来る席だった。  その席に、若い20代そこらの女性4人が座っていた。アレッシオが見た限り、どの子も美人揃いときている。  アルの視線が、アレッシオの示した席へと動く。 「ああ、確かに可愛らしいね。栗毛の子なんて真っ白い肌に碧眼で、好みのタイプだよ」  そう言いながら、彼は気障ったらしく長い指で薄ピンク色の液体で満たされたワイングラスを揺らし、口元へと傾けた。  店内は、アルとアレッシオが入った頃に比べると賑やかになり、そこかしこで談笑する声が聞こえている。アレッシオ達もほろ酔い気分で、いつもよりも声量大きく話しているのだが。それでも喧騒に紛れ、向こうの女性達には聞こえていないからこそ出来る会話だった。 「へえ、アンタ栗毛好きなのか。俺は、断然あっちのブルネットの娘だな。胸、大きいし」  アレッシオはアルがタイプだと言った栗毛のお嬢様っぽい雰囲気の子の目の前に座る、美人でクールな感じの女性の胸元にチラリと視線を向けて、それを肴にするようにワインを煽った。  トマゾに出会ってからトマゾと体を重ねる事の方が多くなっていたが、元々アレッシオはバイセクシュアルで、トマゾに出会う前は女性と関係を持つことの方が多かった。  だから、というわけではないが、好みの女性が目の前に居るとなれば鼻の下が伸びてしまうのもしかたがない。  だらしない表情をして空のグラスをテーブルに置いたアレッシオの脇腹を、アルが肘で突いた。 「子猫ちゃんは胸が大きい方が好みなのかい?」 「そこまでこだわりはねぇけど、どうせなら大きい方が色々出来るだろ?」  男にはないモノだからこそ、惹かれる。あの柔らかなまあるい膨らみには、それこそ男のロマンが詰まっているんではなかろうか。  そんな馬鹿なことを酔いに浮かされた思考で考えていると、どうやらアルも同意見であったらしい。 「ああ、胸での奉仕だね。確かに、アレは――」  と、顔に似合わぬ下世話な話を口にしたのだが。突如としてバンッ、と大きな音を立てテーブルが叩かれ、遮られてしまった。  勿論、そんな事をするのは、エンツォ以外にはいない。 「さっきから聞いていれば、貴方がたは!! 破廉恥極まりない会話は止めていただけますか!? 私まで、貴方がたと同類に見られてしまうでしょう!!」  今一番衆目を集めているのは、間違いなく大声でアレッシオとアルに怒鳴りつけるエンツォだろう。  一瞬静まり返る店内。好奇、或いは嫌悪といった類の視線がアレッシオ達のいるテーブル席へと注がれる。エンツォは、それに気が付かないほど馬鹿でも鈍感でもない。気まずそうにコホン、と咳払いをし、小さな声で「失礼しました」と言ったのが聞こえた。  周りの人々は途端に興味をなくしたように、家族友人との会話や目の前の食事へと集中し始め、あっという間に先程の騒がしいほどの活気が店内に戻ってくる。  気まずい思いを味わったエンツォはというと、羞恥や怒りで赤く染まった頬を隠すようにワイングラスに注がれた水を口元へと運んでいた。 「……あんなに過剰に反応するとは、さては、お前童貞か?」  茶化すアレッシオを、エンツォはピンク色のカラコンの入った瞳できつく睨みすえた。 「違います!!」  怒りの滲むその声音。心なしか、グラスを持つエンツォの指までぶるぶると震えてるように見える。眉間にはくっきりと皺が刻まれ、こめかみがぴくぴくと戦慄いていることからしても、相当に怒っているようだ。  それが見えていないわけでもないのに、アルは面白がって更にエンツォをからかう。  「隠さなくてもいいんだよ? 俺らはそれで君を笑ったりはしないから」  そうは言うものの、エンツォが白状した途端に、アルはこれ見よがしに笑いものにする気だろう。そういった企みが言葉の裏に透けて見えていた。  アレッシオが気が付くほどだ、その言葉を向けられているエンツォが気が付かないはずがない。 「ッ、あたかも私が童貞であるかのように決め付けるのも、憐れむのもやめてくれませんかね」  案の定、今にも手にしたワイングラスを叩き割りそうなほどの怒りを必死に堪えながら、水を一気に喉に流し込んでいた。 「なら、お前はどんな娘がタイプなんだよ?」  エンツォが非童貞なのは話題の種として非常に残念である。アレッシオはつまらないといった表情で、オレッキエッテを突き刺し口に運んだ後のフォークの先を、対面のエンツォに向けた。 「は? なんで、私がそんなことを」  さも面倒くさい、といった表情で、エンツォは上品にヒヨコ豆とベーコンがホワイトソースで絡めてあるオレッキエッテを口に運ぶ。  黙々と食べるその姿からしても、答える気は微塵もなさそうだ。  少しからかっただけで、こんな反応をされては、場の雰囲気も冷めるというもの。  アレッシオは白けた顔で、追加のワインを頼もうと手を上げるその隣。アルが素面と変わらぬその顔で徐に立ち上がり―― 「まあまあ、いいじゃないか。こうやって親睦を深めるのも大事なことだと思うけど?」  と、唐突にエンツォに近付いたかと思いきや。その肩を親しげに抱いたのだ。  これにはアレッシオも驚き、口をあんぐり開けたまま固まってしまった。  犬猿の仲である2人のツーショットにも驚いたが、それ以上に驚いたのはエンツォがピンクの瞳を見開き、手にしていたフォークを取り落とすほどに動揺していたからだ。  ガチャン、と皿とフォークがぶつかる耳障りな音がする。しかし、それよりも賑やかな店内の喧騒に呑み込まれ、直ぐに消えてしまった。  それでも、エンツォの正気を取り戻すのには十分であったようで、皿の中に滑り落ちたフォークを取り直し、その柄に付いたホワイトソースをナフキンで拭き取っていた。  そうして、あらかた拭き終わった辺りで、実に面倒臭そうに口を開いた。 「…………もの静かで、知的で。あとは、髪は長くブルネットがいいです。ほら、答えたんですから文句はないでしょう」  エンツォは鬱陶しげにアルの腕を振り払う。その上、アルに触れられたのがよほど嫌だったのだろう。触れていた肩辺りを、自身の手で執拗に拭っていた。  一方、振り払われたアルは、面白くなさ気にエンツォの背後で唸った。 「うーん、なんだか普通過ぎてつまらない答えだね」 「つまらなくて結構です」  一息にバッサリと言い切ると、エンツォはアルの存在を無視してカプレーゼのモッツァレラをフォークの先で器用に一口大に切り分け、口の中へと放り込む。  淡々と食事をするエンツォの姿に、アレッシオの悪戯心が刺激された。 「なぁ、アル。酒飲ませたら、もっと面白い事喋るかもしれねぇな」  アレッシオの蒼い瞳が、アルの席の前にあるワイングラスを捉えて光った。その中には、グラスに半分ほど残った気泡混じりのロゼ色の液体が、室内灯の暖かな明かりを受けて煌めいている。  つられて動いたアルの瞳も、ワイングラスの中身を見て妖しく光った。 「ああ、それはいい案だね。さっきから、エンツォはちっとも飲んでないみたいだし、ね?」  アルとアレッシオの醸す不穏な雰囲気に、エンツォの食事の手が止まった。 「余計なお世話です。いいから放っておいて――ちょ、なんで羽交い締めにするんですかッ!?」  狼狽するエンツォの背後では、満面の笑みを浮かべたアルが彼の両脇をガッシリと腕で掴み羽交い絞めにしていた。純粋な腕力ではアルの方に軍配が上がる上に、周囲の状況を気にしているエンツォがアルを振りほどけるはずもなかった。 「アレッシオ、押さえておくから今の内に飲ませてくれ」 「了解」  アレッシオは、今が好機とばかりにグラスの細い持ち手を掴むと、エンツォの口許に押し付けた。が、当然飲まされるとわかっていて口を開ける馬鹿はいない。エンツォも唇を真一文字に引き結んでアレッシオに抵抗していた。  しかし、アレッシオはそれしきの抵抗で諦める訳もなく。エンツォの鼻を摘まみ、苦しさから口を開けたところに無理矢理グラスの中身を流し込んだ。 「や、やめ――ん、ぐ!! んん、ぐッ!?」  エンツォは目を白黒させながら、グラスの中身を飲み干していく。  元々たいして入っていなかったこともあり、ものの数秒で空になったグラスをアレッシオはテーブルの上に置いた。 「もっと酒頼んでおけばよかったか?」 「いや、これくらいで十分だと思うよ。彼、とんでもなく下戸だから。きっと、面白いものが見られるよ」  アルの言葉を聞いて、アレッシオは興味津々にエンツォの様子を窺う。  すると、真白い彼の肌がほんのりと上気し、目がこう、とろん、と蕩けていた。  普段小憎たらしい澄まし顔ばかりしているから、これはこれで面白い。が、所詮この程度だろう。そう思ってアレッシオは席に座り直しパスタの残りを口に運ぶ。  と、ふらふらと視線のみならず上半身も前後左右に揺れ動いているエンツォが、赤ら顔のまま同じく席に着きなおしたばかりのアルを、ふらふら、ふにゃふにゃと指差した。 「いきらり、あにするんれすか!! っ、ひっく……アル……わたしは、お酒らめなんれすって、いっらではないれすか!!」  完璧に呂律の回ってないその様子に、アレッシオは「ぶはっ!!」と噴き出した。幸い、口に放り込んだパスタは間一髪のところで飲み込んでしまっていたから惨事には至らなかったが、かなりの破壊力である。 「くっ、あははっ!! ちょ、あれだけで呂律回ってねぇって!!」  アレッシオはバンバンと掌でテーブルを叩きながら大笑いする。アソシエーテを連れて飲みに出ることもあり、中には下戸だという者も当然いたにはいた。が、下戸といってもワイン一杯程度―しかも半分も入っていないくらいの量―で呂律が回らなくなるような者は未だ嘗てお目にかかったことがなかった。  アレッシオにとって、もはや天然記念物なみに珍しいエンツォをにやにやと見ていると、隣から脇腹を突かれた。こんなことするのは、当然アルしかいない。 「くくっ、面白いだろう? 俺も、久々に見たけれどやっぱり彼で遊ぶと楽しいね」  大笑い、とまではいかないが、それでも楽しそうに上品に笑うアルが悪魔のようなことを口にする。やはり、彼は底意地が悪い。  こいつだけは絶対に敵に回すまい、とアレッシオは心の中で誓いつつ、カプレーゼのモッツァレラの最後の一切れをフォークで突き刺して口へと運んだ。  そのまま口の中へと放り込む。と、ふんわりとミルクの香りが鼻に抜け、柔らかなそれを咀嚼するとモッツァレラの甘味が口の中一杯に広がった。オリーブオイルのコクと程よい塩気が絶妙なハーモニーを生み出していた。  リストランテにも負けず劣らずの料理で空腹も満たされ、余興も見られアレッシオはご満悦の表情で腹を撫で擦る。  その隣のアルはというと、持っていたのであろう高級そうなシルクのハンカチで口元を上品に拭っていた。しかし、その口元は意地悪く吊り上っていて、未だにエンツォを笑っているのがアレッシオの席から丸分かりだった。 「ひろを、おもちゃに……しないれくらさい……っう、くっ!!」  ふらふらと揺れながら、エンツォはアレッシオとアルを睨む。エンツォにしてみれば怒っているのだろうが、呂律が回っていないせいでいまいち迫力がない。  アルは、余程エンツォが酔ったこの状態がツボなのだろう。くすくすと笑い続けているが、アレッシオは見ている内に次第に心配になってきてしまった。ふらふらと頭や体が揺れ、今にも椅子からひっくり返ってしまいそうで危なっかしい。  アレッシオは立ち上がるとエンツォのすぐ傍まで移動した。そうして、彼に手を差し出す。 「ったく、ほら。そろそろ出るから、掴まれ」  丁度、キリよく食事も終わっていたし、これから更に客が多くなる時間帯に長居して店の回転率を下げるのも迷惑だろう。  アルも同じ考えなのか、アレッシオに続くように立ち上がり、「ここは払っておくから、その酔っ払いをよろしく頼んだよ子猫ちゃん」とアレッシオにエンツォを押し付けて、1人さっさと会計の方へと向かっていってしまった。  正直、面倒事を押し付けられたとしか思えないが、意地の悪くエンツォと犬猿の仲であるアルが、エンツォをきちんと介抱するとも思えない。きっと、何処かで放置するか、又はこれ以上の嫌がらせを仕掛けるかの2択だろう。  仕方が無いとばかりに、アレッシオは差し出していた手を更にエンツォの方へと突き出す。しかし、アレッシオの手は赤ら顔のままのエンツォによって振り払われてしまった。 「よけいら、おせわれす。ほうっれおいてくらさい!!」  そうは言うものの、呂律すら怪しい酔っ払いを1人店に置いていける筈もない。それに、第一こんな酔っ払いを店に放置するなど、とんだ迷惑行為に他ならない。  「アホ。酔っ払い1人置いていけるわけねぇだろ」  アレッシオは呆れながら言うと、エンツォの頭を軽く叩く。そうして、無理矢理腕を掴み立ち上がらせると、半ば引き摺るようにして店の外へと出た。  とっぷりと日が暮れてしまったジョゼッキア通りには、夜はこれからといわんばかりに多くの人が行き交っていた。赤ら顔の男性やほろ酔い姿の色っぽい女性、楽しげに手を繋いで歩く家族の姿など、様々な人間達がアレッシオ達の目の前を通り過ぎていく。 「子猫ちゃん、こっちだよ」  声のした方向へと視線を移動させると、通りを挟んだ店の真向かいでアルが壁に凭れかかる様にしながらひらひらと手を振っていた。  ラフに着こなしているが、彼が身につけている黒いスーツは一目で仕立ての良さの違いが分かる高級品で。赤味がかった癖毛に端正な顔立ち、それに惹き込まれそうなエメラルド色の瞳もあって街行く女性の視線がチラチラとアルに向けられていた。 「お前な、前から言おうと思ってたんだが、外で子猫ちゃんとか呼ぶなよ」  アレッシオはアルに近づくと、小声でそう言った。アルに呼ばれている内に慣れてしまっていたが、人の目がある場所では流石に子猫ちゃんと呼ばれるのは抵抗がある。  ちらちらと向けられる好奇の視線に内心舌打ちをすると、アレッシオはエンツォの腕を肩に回し担いだまま歩き始めた。 「悪かったよ、子猫ちゃん」  追いつき、隣に並び歩くアルをアレッシオはギロリと睨み付ける。謝った傍から口にしているところをみると、どうやらアルはアレッシオの呼び方を改める気はないらしい。 「悪いと思ってんなら、その呼び方をやめろ」 「んー、それは無理かな。だって、子猫ちゃんは子猫ちゃんだろう?」 「俺は、お前の恋人でも何でもないんだが?」 「そうだね。でも、俺は君を気に入っているし。それに、何よりセックスもした仲だろう?」  確かにアルの言ったことは事実なのだが、それを明け透けに。それも衆目がある場所で口にするのは如何なものだろうか。  案の定、道行く人々の内何人かがぎょっとしたような表情でアレッシオ達を見ていた。 「ッ〜〜、んなこと口にすんな!!」  アレッシオは真っ赤な顔をしながら、アルに向かって吼えた。何故、衆目の場でこんなこっ恥ずかしいことを暴露されなければならないのだろうか。というか、アルには羞恥心というものがないのだろうか。  人の目もなんのその。アルはけろりとした表情で、ぴったりとくっつくようにアレッシオの隣を歩いている。 「でも、本当の事だろう? 可愛かったな、俺の上でイった子猫ちゃんは」  デリカシーの欠片もないそのアルの一言に、アレッシオの中で何かが切れる音がした。アレッシオもデリカシーがない方だが、アルはその上をいっている。いや、分かっていて口にしているあたり、余計に性質が悪い。 「ッ〜〜死ね!! お前、1回死んでその頭取り替えてこい!!」  その日、アレッシオの怒声がジョゼッキア通りに大きく響き、周囲の人間を驚かせたのはいうまでもなかった。

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