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第5話
こんなに心がときめく経験はいつぶりくらいだろうと清藤の背中を見ながら考えていた。
田舎の男子校上がりで何もかもが華やかに思えた大学生の頃。初めて付き合ったのが元カノだった。
素直で飾り気のない彼女に恋をした頃だろうか。お互いが幼く毎日が手探りな付き合いは毎日胸が踊った。彼女を見れば胸が高鳴り、その想いに酔っていた気さえする。
彼女が友人と寝たことを知った時、真田は何日も泣き苦しんだ。思い出せば込み上げてくる悲しみと怒り。それに堪えながら新入社員だった真田は仕事にのめり込んでいった。
人を信用しない。そう自分に植え付けた。何度も謝りやり直したいと言った彼女に罵声を浴びせたこともある。
仕事をしていただけの自分に非があるとは思えなかったからだ。
今思えば、彼女とのその先の将来など考えられなかったのだから、いつかは終わってしまう恋だったのかもしれない。
あの時以上の胸の高鳴り。それはこの会社で仕事をしてく上で、憧れを抱くこの人とこうやって並んで歩くことができる。この上ない高揚感に足を止めて待ってくれている清藤の元に急いだ。
向かい合って食事をする。そんな日が来るとは思っても見なかった。綺麗に箸を持つ手に見惚れてしまう。型のいい唇に運ばれていく海老の天ぷらが羨ましいくらいだ。
「どうした?食べないのか?ここの揚げ物は美味いぞ」
見惚れていたというわけにもいかず、手を合わせて箸を持った。
(それにしても美味そうに食う人だな…)
二人で同じものを注文し同じものを食べる。食い物にまで感動すら覚え、味わいながら咀嚼を繰り返す。そう目の前のこの人も口に含む度、美味さに感動しているのか幸せそうに顔を綻ばす。
勿論無言だ。それでも頬張る清藤の幸せそうな顔を見れば、美味いものを一緒に食べることさえ感動している自分に気付く。
「それにしても真田は美味そうに食うよなぁ」
食べ終わった清藤は嬉しそうに笑った。店員を呼び、熱いお茶を二つ頼むと箸を置いて手を合わせた。
(清藤さんのほうがよっぽど美味そうに食ってたけど…)
「食わせ甲斐があるな。いっぱい食えよ」
内ポケットから煙草を取り出し親指で店内の端を指す。
「ちょっと行ってくる」
足早にスモーキングブースに入り、ガラス越しに手を振ってくれる。背もたれがあるんだろう。凭れ掛かり細い指先が煙草を口元へと運ぶ。その姿はやはり綺麗で視線を外に向ける様は絵になっていた。
(どこにいても綺麗な人だ…)
手を合わせ箸を置くと、清藤の皿に一切れだけ残っているものが目に入る。
(蓮根苦手…とか?)
蓮根の天ぷらが皿の端に追いやられ申し訳なさそうに残っている。食べ終わったのを見計らってなのか戻ってきた清藤が熱いお茶を手に取った。
「清藤課長、蓮根苦手ですか?」
真っ直ぐ見る目は次第に視線を落とし申し訳なさそうに眉を下げ頷いた。
「どうしても臭いがな…苦手で」
「臭いなんてします?」
「いや臭うだろ…食感とダブルパンチだぜ」
体を乗り出して囁く仕草はなんだか親しい仲のようで嬉しくなる。店主には聞こえないだろうが小声なのが申し訳なく思っているんだろうと伝わってくる。
置いた自分の箸を持ち清藤の皿に手を伸ばした。田舎育ちの真田の実家では普段からよく食卓にあった蓮根料理。食べ物を粗末にしない躾は大人になっても変わってはいない。
一口で蓮根の天ぷらを頬張り箸を置いた。咀嚼を繰り返し飲み込む頃には清藤は嬉しそうに微笑んでいた。
「いい食いっぷりだな。ありがとう」
貰ったのは自分なのに礼を言われ何故か恥ずかしくなった。
「沢山残されてたら食べませんけど、一つだけなら…って何がおかしいんです?」
口を押さえ笑いをこらえている清藤にムッとした。
「高居部長がさ、真田は何でも大切に使う奴だって言ってたの思い出しただけ。食い物もそうだよなってさ」
伝票を持ち立ち上がった清藤の後を追う。
「清藤課長、払いますよ」
「何言ってんの?歓迎会ランチだって言ったろ?奢らせてよ」
「…ありがとうございます」
「これから頑張ってもらわなきゃいけないからさ」
支払いを済ませ振り返った清藤は課長の顔で言い、また早足で会社へと足を向ける。今度はその隣に立ち肩を並べて歩いた。
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