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永遠のさよなら
ひとつだけ、翼に言えないことがあった。これは俺にとって、乗り越えなければならない儀式だと思ったから。ずっと傍で見守ってくれたあの人との、永遠のさよなら――
それは初夢を見た、3日後のこと。夜勤明けで朝ご飯を食べてから、いつものようにベッドに横になったんだ。
(目が覚めたら、翼が勤務している派出所に顔を出してあげよう)
一緒に食べる晩ご飯は、何がいいかなぁと考えている内に、すとんと眠りについた。
気がついたら捜査一課の、見慣れた職場風景が目の前に展開されていて、うげぇと思わざるを得ない。さっきまでそこにいたのに、何を好き好んで、職場の夢を見なきゃならないんだよ……
げんなりしつつ、手にしているファイルを眺めてみた。事情聴取に使うこれで、誰かを取り調べしなきゃならないことが分かったので、思いきって取調室の扉を開け放ってみる。
そこにいたのは――
「やっと来た。遅いぞ水野!」
聞き覚えのある特徴的なハスキーボイスに、体がびくんと竦んでしまった。
「山上……先輩っ」
彼の姿を見たのは、初夢を見た3日前のこと。だけどその姿は、平安時代の雅な衣装を身に着けていたし、現代のものじゃなかったから、そんなに衝撃がなかった。
だけど今、目の前にいる山上先輩の姿は、亡くなったときの格好をしていて、実に気だるげにパイプ椅子に座っている。
嫌な予感しかしない――山上先輩の声が聞こえる夢を見たあと、リアルでは面倒くさい事件が起こったり、デカ長に大目玉を食らったりと、ろくなことが起こらないから。
姿を見たとなるとこれは、生命の危機なのでは……まさに、お迎えに来たみたいな!?
「何、面食らった顔してるんだ。早く聴取しろよ」
「俺が……山上先輩を、聴取?」
「お前を残して、先に死んだ僕だから。理由、知りたくないか?」
切れ長の一重まぶたを細め、愛おしそうに俺を見つめてきた彼に対して、何と答えていいか分からなかった。
今更理由を知ったところで、山上先輩が生き返るわけがない。ひとつだけ言えるのは、あのとき失った大好きな人の喪失感を、再び味わうだけなんだ。
「……僕の、水野――」
言いながら立ち上がり、伸ばしてきた左腕。その薬指には、俺が噛んで付けたエンゲージリングの痕が、そのままだった。
それに気がついた瞬間、慌てて左手を背中に隠す。俺の薬指には、翼が買ってくれたシルバーのリングが嵌めてあったから。きっと山上先輩は、気分を害してしまう――
「こんなに近くにいるのに、水野に触れられないなんて」
左腕を伸ばしたまま、そこから動こうとしないで、切なげにポツリと呟く。
「山上先輩?」
「死んで、はじめて気づくことがある。生きてる水野に、僕は触れられないんだ」
それって俺も、山上先輩に触れられないってことなのかな?
恐るおそる綺麗なカーブを描いた頬に、右手をそっと伸ばしてみた。肌に触れたと思った瞬間に、山上先輩の顔を突き抜けてしまう自分の手に驚いて、慌てて引っ込める。
「バカだな、お前は。わざわざ確かめることないのに」
「だって……」
「それに、左手を隠す必要はない。知ってるから、さ。水野を大切に想ってるヤツから貰った、指輪を嵌めてるだろ?」
笑いながら告げた貴方の顔を、俺は直視出来なくて俯いてしまった。だって笑いながら告げているのに、今にも泣き出しそうな顔に見えたんだ。
どんな気持ちで、指輪のことを言ったんだよ……
背中に隠していた左腕を、力なくぶらんと体の脇に下した。それでも指輪が見えないように、ちゃっかり配慮する。
「……そんな顔して俯くなよ。こうして顔を付き合わせられるのは、これが最後になるんだから」
「えっ?」
「お前の顔を、しっかり見せてくれ。水野の綺麗な瞳で、僕を見てほしい」
そんな風に強請られたら、顔を上げざるおえないじゃないか――
奥歯を噛みしめながら恐々と顔を上げた俺を、嬉しそうな表情を浮かべて眺める。
「おいおい、黙り込むなって。さっきも言ったろ、これが最後だって。お前の声、聞かせてくれ」
(これが最後なら、言ってしまってもいいだろうか。だってこれがチャンスなんだ、俺が思っていた本当の気持ち……)
一瞬だけ天井を見てから、山上先輩の顔を凝視した。自分が生きてる間忘れないように、じぃっと見つめる。
はじめて心の底から愛した彼の顔を、絶対忘れないように――
「山上先輩は大バカ者です! 俺と約束したのに……一緒に生きるって約束したのに、ひとりで逝ってしまうなんて」
「お前をこの手で殺して、僕も死ぬと思っていたから。他の誰かに殺られるのは、どうしても見たくなかったんだ」
「だからって、あんな風に自ら進んで、俺の前に出ることないじゃないですか。残された俺が苦しむこと、分かっていたでしょう?」
今まで自分の中に燻ぶっていた感情を、思いっきり山上先輩にぶつけてしまった。俺の気持ちを聞いて、心を痛めるだろうなぁと思ったけれど、ぶつけずにはいられない。
「何だか思い出すな。水野にファイルで頭を殴られたこと。すっごくショックだ」
そんなことを言いつつも、どこか嬉し気な山上先輩の顔に、肩の力が抜けてしまう。俺の本音を聞いて素直に喜ぶ姿に、これ以上怒れない。
「どこかで分かっていたんだよ。水野とは赤い糸が結ばれていないって。無理矢理手繰り寄せた、僕たちの赤い糸が切れてしまったら、お前は違う誰かと恋に落ちるだろうってさ。それを、どうしても見たくなかったんだ」
ときどき、どこか諦めたような目をして俺を見ていたのって、そういう理由だったのか。
「山上先輩と付き合っていながら、他の誰かと恋に落ちるなんて、あり得ないことなのに。それって、俺の愛し方が足りなかったっていうことですよね……」
「いいや、お前は十分に僕を愛してくれたよ。しっかりと伝わっていた。これは僕のワガママなんだ」
触れると突き抜けてしまうことが分かっているのに、俺に向かって腕を伸ばし、ぎゅっと抱きしめてきた山上先輩。半透明に映る体を同じように抱きしめ、彼のぬくもりを懸命に探してしまった。
「僕と離れてから、随分と時間が経ってしまったな。だけど水野は強くなった」
「貴方がいなくなって、すっごく苦しみましたよ。死にたくなるくらいに」
「何を言ってるんだ。お前の傍には、支えてくれる人たちがいるじゃないか」
「それは分かっていますけど……山上先輩はもう、俺を支えてくれないんですね?」
今までは自分の存在を夢の中という空間の中、声で知らせながら、俺に危機が迫ることを教えてくれた。
「僕はもう必要ないだろ。政隆の傍には、しっかりとした奴がついているじゃないか」
触れられないのに、俺の頭を何度も撫でてくれる。その仕草だけで、胸が締め付けられるように苦しくて――
「達哉さんっ……」
思わず下の名前で呼んでしまった俺を見て、ちょっとだけ顔を歪ませたけど、直ぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「とりあえず待ってるから。お前が死んだ時、ハゲててデブでどうしようもないオヤジになっていても、迎えに行かなきゃならないからな」
「あ――」
それって山上家の墓前で、翼が頼んだ言葉じゃないか。
放り出すように俺の体から手を離し、背中を向ける。潔すぎるその姿に縋りつきたくなったけど、両手に拳を作って、何とかやり過ごした。
ここで縋りついたら、山上先輩が離れられなくなると思ったから。この人を開放してあげなければと、悟ってしまった自分がいた。俺だけを愛する達哉さんを、閉じ込めてしまってはいけないんだ。
無鉄砲で何をするか想像できない山上先輩だからこそ、自由にしてあげないと。
「覚えておいてくれ。どこにいても殺したいくらい、お前を愛してるってこと」
「絶対に忘れません。肝に銘じます」
俺の言葉を聞いて顔だけで振り返り、満面の笑みを浮かべたまま取調室のドアから、軽やかな足取りで出て行った。その姿に見惚れていた次の瞬間、金縛りから解放されたように、ベッドから体を起こす。
「……今の、なに!?」
驚きついでに、自分の部屋をキョロキョロと、意味なく確認してしまった。よく分からないけれど、自分の周りにある空気というか雰囲気が違う気がした。忌々しいというか、禍々しい感じのものが消えて、澄んだ空気に入れ替わったというか。
「山上先輩が……俺の傍から、いなくなったっていう証拠なのかな」
俺が突きつけた文句を受け入れるみたいに笑って、これが最後になると分かっていながら、寂しいのひとことも言わず、あっさりと去って行った。
あまりにもあっさりしすぎて、涙すら出やしない――
山上先輩らしいといえばそうなんだけど、お蔭で気づかされたことがあったよ。取調室から出て行く貴方の大きな背中を見たから、それが分かった。
(今度は俺が、大事な人を守る番なんだって)
こんなドジな自分が、愛する人をきちんと守り切れるか、不安が尽きないけれど、山上先輩が言ってくれた「強くなったな」って言葉を信じて、頑張ってみるから。
「そうと分かれば、とっとと翼のところに行って、影から見守ってやらなきゃね!」
いつもやっていることなれど、気合いの入り方が、ひと味違うんだ。
布団を足で蹴飛ばして飛び起き、いそいそ着替え始めた。使命感に燃える俺を、天国にいる山上先輩だって止められないだろう。
貴方が残してくれたものを胸に、これからも精進します。山上先輩の命令は、絶対だから――
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