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#3 神経衰弱
ベッドに背を預け、脚を伸ばして床に座る友春が、脱ぎ捨てたコートの内ポケットを探る。赤い箱を平然と取り出すのを那緒は看過しなかった。
「トモ、俺の部屋で吸うなって何回言ったらわかるんだよ」
グラスに緑茶を注ぐ部屋の主よりも遥かに寛いでいる友春は、唇に細い紙筒を一本咥え、手にした百円ライターをカチカチ鳴らす。
「いいじゃん別に。ナオママ夜までいないんだろ」
「臭いでバレんだろ! お前のせいで最近のファブリーズ消費量やべえんだよ!」
那緒の真っ当な抗議など何処吹く風で、友春は煙草の先にあっさりと火をつけた。
ポスターの類やカレンダーや時計すらなく、真っ新なオフホワイトだけが広がっている壁、雑誌や漫画で埋まった小さな本棚、筆記用具やノートが乱雑に散らばった学習机。
これといった趣味の物も見当たらない、そんな那緒の自室に、白い煙が細く揺蕩う。甘いような独特の匂いがたちまち広がった。
その直後、玄関のチャイムが鳴り響く。間を置かずに扉を開ける音。
那緒が反射的に立ち上がる。
おじゃましまあす、と可愛らしい声が階下から届いた。
「うわ、宗介もう来たの? タイミング悪」
宗介に限らず友春もだが、那緒の家に出入りするのに玄関前で待つということをしない。チャイムだけ鳴らして勝手に入ってくる。勿論、予め約束をしていて、那緒が鍵を開けておくのが前提ではある。
「ナオさあ、下で宗介たち足止めしてきてくんない?」
「は? 足止め? 何でだよ」
「火点けたばっかで勿体無い。せめて半分は吸わせて。二分でいいから」
「お前なあ……」
ぶつくさ言いながらも、那緒は友春の傍にスプレーボトルを置き「ちゃんとファブリーズまでしろよ!」と吐き捨て、部屋を出ていった。
残された友春はゆっくり煙を吸い込む。寄りかかっていたベッドによじ登ると、窓を細く開け、外に向けて隙間から紫煙を吐き出した。
安物の携帯灰皿に灰を落とす。
二、三度それを繰り返したところで、階段をドスドスと上がってくる足跡が耳を叩いた。
――本当にあのポンコツ、使えない。
溜め息と共に最後の煙を吐き、火種を灰皿に押し付けるのとほぼ同時に、部屋の戸を勢いよく開けて宗介が入ってきた。
「友春……それ消せ」
地を這うような声に、普通であれば畏縮するところだろうが、残念ながら声変わり前からの付き合いである友春には、そこまでの威力を発しない。
肩を竦め、蓋を閉じた携帯灰皿を軽く掲げ「もう消したってば」と戯けてみせた。
「さっさと仕舞え。殺すぞ」
「はいはい、ごめんって。お兄ちゃん必死すぎ」
ぎろりと三白眼が物騒な光を増すが、友春は気にも留めなかった。
窓をさらに開けて換気をしつつ、結局半分も吸えなかったな、と思いながらカーテンとベッドに消臭スプレーを振りかける。
できれば二人とも足止めしておいて欲しかったが、上がってきたのが宗介だけだったのは、まあ結果として悪くはなかったのだろう。
吸いたいものは吸いたい。しかし喘息持ちの子供に苦しい思いをさせるのは、さすがに友春といえど気が引ける。
室内の気温は下がったが、煙や匂いの感じられない程度に換気が出来た頃、那緒と円佳 が賑やかに階段を昇ってきた。
「トモくんこんにちは!」
部屋に飛び込んで来るなり、幼い子供特有の、加減を知らない大きな声を張り上げる。友春は猫を被った笑みを浮かべて、さらさらの黒い髪を撫でた。
「こんにちは、円佳ちゃん。元気だね」
「うん、元気だよ! トモくんは?」
「俺はあんまり元気じゃないかな」
何度同じやりとりをしても、円佳はいつもここで不思議そうな顔をした。
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