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#5-3
リビングへ足を踏み入れた宗介は、およそ二週間ぶりに母と顔を合わせることとなった。
ローテーブルに積まれた書類を前に、ソファへ腰掛け前のめりになった母の恭は、宗介の姿を見て切れ長の目を緩める。
「お帰り、宗介」
仕事用の眼鏡を一度外して目頭を押さえると、恭は宗介からの返事がないことも特に意に介さず、再び書類の山へと視線を落とした。
「学校ちゃんと行ってんのか?」
「進級できんだろうな?」
「悪い奴らとつるんでねえだろうな」
いくつか投げかけられる言葉の全てを宗介は無視し、恭の座るソファの横を素通りして、メタルのパーテーションで仕切られたダイニングキッチンへと歩を早めた。
冷蔵庫から少量サイズのペットボトルを取り、それだけ持ってもう一度、恭の横を通る。
「そうくん、お部屋にいくの?」
「ああ。円佳はどうする」
「円佳ね……お母さんとお話してからいく」
そうか、と妹の頭を撫でてやり、滞在時間一分にも満たないうちにリビングを出た。
ドアが閉まる間際、隣に座った円佳を愛おしげに抱き寄せる恭と、初めて一瞬だけ視線が噛み合った。
光希はさっさと自室へ戻ったらしい。
円佳が隣からいなくなった途端、沸々と湧き上がる苛立ちを盛大な舌打ちに乗せて撒き散らしながら、宗介は長すぎる廊下を歩いた。
圭介と恭が結婚当初から住んでいたマンションだが、数年後に隣の一戸も購入し、壁をぶち抜いて繋げた。
リノベーションの目的は、偏に部屋の数を増やすことだった。そのためやたらと広い上、やや不自然な間取りとなっている。
玄関から一番遠い部屋が宗介の個室だ。
四畳ほどの狭い部屋だったが、シングルサイズのパイプベッドと、数着の服が掛かったハンガーラックと、ごみ箱。置かれているのはそれだけで、殺風景ですらあった。窓はなく、ドアには内鍵が掛かる。
以前は物置のように使われていたその部屋は、宗介が希望して自室に作り替えたものだった。
宗介が父親に何かを願ったのはそれが最後だ。
内鍵はそのときに付けたもので、部屋にいる間は絶対に誰も入れないよう閉ざしていた。円佳だけが時々、そこで宗介と一緒に過ごす。
時計もない部屋で宗介は灰色のシーツに身を投げ出した。ペットボトルは蓋も開けられないまま枕元に放られる。
この部屋では寝る以外にできることがない。しかしリビングには母がいる。父も間もなく帰ってくるのだろう。
父と顔を合わせるつもりは毛頭なかった。誰を連れて来るんだか知らないが、ご機嫌取りが必要なら光希がやればいい。自分には関係ない。
ポケットに入れっぱなしのスマートフォンが震えた。
俯せに寝転んだまま後ろ手に引っ張り出し、画面をほとんど見ずに操作する。
宗介に連絡してくる相手なんて、通常二人しかいない。案の定そのうちの一人から、トークアプリを通してメッセージが届いていた。
『円佳に次は何食べたいか聞いといて。って母さんが言ってます』
読み終わるとほぼ同時に、更に二通を受信する。今度はメッセージではなく写真だった。
今朝、那緒の母が撮っていたものだろう。ウサギの形にデコレーションされたカップケーキを掲げて笑う円佳の姿が画面に表示された。
写真を全く撮らない宗介のスマートフォンには、那緒の母が撮ったものが何枚か保存されている。
『わかった』とか『了解』とか、それだけの返事を送る習慣は宗介にはない。那緒も心得ているから返信を期待してはいないはずだ。
黙ってアプリを閉じ、スマートフォンもシーツの上に放り出した。
大きく息を吐き、眠ってしまおうか、と考える。そしてそのまま心臓が止まればいいのに、と、思う。
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