23 / 111
#5-4
午後七時、けたたましくドアを叩く音で宗介は虚ろな眠りから醒めた。
時折蹴りも交えながら、ドア越しに聞こえる声は光希のものだ。苛立った様子で自分を呼んでいる。
要件は耳を峙てなくとも明らかなので無視しようとした、が。
聞き捨てならない言葉が聞こえた気がして、宗介はベッドから降りた。
「呼ばれなくても出てこいよカス野郎」
あわよくばドアの前に立つ弟の鼻骨くらい折ってやれないかと思いながら勢いよくドアを押し開けたが、残念ながら光希の反射神経が上回ったようだった。
一歩下がったところで光希が舌打ちと共に出迎える。
「テメー、今何つった?」
「クソカス野郎」
「そこじゃねえよクソボケ。ドア開ける前だ」
十センチ程の身長差をフルに使い、宗介は光希を思いきり見下す。それに再度舌打ちを返して、光希はドアを叩きながら言った言葉を繰り返した。
「円佳がエロジジイの接待させられんぞ。嫌ならお前が酌しに来い」
不機嫌どころではなく、殺気を放ちながらリビングへと向かった宗介を待っていたのは、両親と円佳。そしてスーツ姿の、見たこともない一人の男性だった。
「お……久しぶりだな。光希、連れてきてくれたのか」
父の圭介もジャケットを脱いだだけのワイシャツ姿だ。スーツの男とダイニングテーブルに向かい合って座り、ワイングラスを傾けていた。
テーブルには家政夫が作り置いたものであろう料理が並んでいる。母はキッチンに立っているが、恐らく冷蔵庫の中のものを皿に並べているだけだ。
父の隣に円佳が座っていた。子供用のスプーンを握って、夕食のオムライスを一生懸命口に運んでいる。
もうすぐ食べ終えるところだから、そのタイミングで連れ出そう。そう算段をつけながら、宗介はそこで漸く、父の向かいに座る男を見た。
年齢は五十手前あたりだろうか。父より歳上に見える。中肉中背で、頭髪がだいぶ薄くなっている。その割に眉が濃くて、低いのに大きい鼻が脂でぎとついている。
「長男の宗介です。宗介、こちらはうちのお得意様だ。鍛治ヶ崎 さん」
「君が宗介くんか! へえ、本当に奥さんにそっくりだな」
紹介されるなり、鍛治ヶ崎というその男は大口を開け、がさついた声をあげた。見た目通りに下品な声だ、大声出すんじゃねえ唾が飛ぶ、円佳に付着したら殺してやる、と宗介は思いながら、無愛想に気持ち程度の会釈をした。
「宗介。お前、学校はちゃんと行ってるのか?」
数時間前の母と全く同じことを父が言う。
黙って頷きながら宗介はゆらりとテーブルへ歩み寄り、栓のあいた濃い色のボトルを左手で掴んだ。
そのまま父の頭部を殴るための鈍器として使用する、のを想像しつつ、右の掌に瓶の底を乗せる。
まだ半分以上中身の入ったそれを片手で持ち、テーブルに置かれた鍛治ヶ崎のグラスの上で傾けた。深紅の液体が注がれる。エチケットはしっかりと天を向いている。流れるような動作で手を捻り瓶口を上向けた。
父が満足げに微笑んで自身のグラスもテーブルへ降ろしたので、同じことをしてやる。終始無言。鍛治ヶ崎が何か言ったが宗介の耳には留まらなかった。
ボトルを置いて下がったところで、光希と目が合う。酌したぞ、これで文句あっか。一杯だけじゃねえかふざけんな。声に出さずとも互いの胸中は手に取るようにわかった。
「光希くんは春から宗介くんと同じ高校に行くんだろう? 兄弟仲が良くて羨ましいな」
「はは、そうですねえ。光希は昔から宗介の真似をして」
血のような酒を舐めながら、鍛治ヶ崎と父がそんな言葉を交わしている。
反吐が出る、と宗介は思った。恐らく同じことを思っているはずの光希は、愛想笑いを貼り付けて、
「まだ受験してませんから……失敗しなければ、ですけど」
優等生ぶった声音で言った。
「何だ光希、自信ないのか?」
「そうじゃないけどさ。当日まで何があるかわかんないし」
轢かれて利き腕骨折しろ。バーカ。
「鬼塚社長の息子さんなら、寝てたって合格できるだろう」
テメーが寝ながら階段落ちて首折れろ。バーカ。
「光希は俺に似てズル賢いからなあ。カンニングはバレないようにやれよ?」
テメーは最低のクズだってバレて社会的に死ね。バーカ。
「父さん、そこはカンニングなんかするんじゃないぞって言ってよ」
ははは、とジジイ共の笑い声。クソだ。クソすぎる。円佳が空になった皿を前に、目をぱちくりさせている。
宗介は急いで円佳を椅子から立たせた。吐き気を堪えながらその小さな手を引く。父と母が自分を呼んで何か言っている。もはや言葉として認識できない。リビングのドアノブを掴む。光希の声もした。認識したくない。
「そうくん、おさんぽいくの?」
気づいたら玄関の外に立っていた。
円佳はひよこのスリッパのままで、宗介は靴下だった。
ともだちにシェアしよう!